リープ34 インセプション その7
翌朝。起きるとやけに身体が重く感じた。熱を測れば37度2分。微熱だ。それがわかると同時に、頭が少し痛くなってくるから不思議である。しかし、動くぶんにはさほど問題ないだろう。万が一、問題があるとしても、根性だ。こんな時に寝込んではいられない。
朝食代わりにバナナをかじり、ヨーグルトを胃に流し込むと、幾分か体調が良くなった気がした。気がするだけだから、あえてもう一度熱は測らない。
朝の支度を済ませ、必要最低限の物だけ持ってアパートを出ると、昨日よりも空気が冷たく感じる。念のために部屋に戻った俺は、クローゼットの奥から少し厚めの上着を引っ張り出してそれを着込んでから、再度出発した。
白鯨の部室に到着したのは十時になる少し前のこと。池里も含めた撮影隊の面々は既に集まっており、俺が来ると同時にすぐ出発ということになった。そこでひとつ安心したのは、皆もそれなりに野暮ったい上着を用意していたということである。こんな恰好をしているのが俺だけだったら、いよいよ高熱を疑わなければならないところだった。
大学を出た俺達は、三池さんの運転するワゴン車と小津さんの運転する乗用車に分かれて乗り込んだ。目指すはロケ地の巣鴨通り商店街だ。黒沢さん曰く、池里はここで例の交通事故に遭ったらしい。
車はやがて巣鴨駅付近にある駐車場に到着した。撮影機材を降ろすために車を降りると、小津さんがこちらへ近づいてきて、俺にこっそり耳打ちした。
「江波、君は池里を連れて商店街巡りに行ってくれ」
「どうしたんです、急に」
「安心しろ、解雇宣言じゃない。池里が君と話す時の素の表情が欲しいだけのことだ。隠れてこっそりカメラを回すから、君はただ楽しんでいればいい」
「そんなの予定にありましたっけ?」
「予定はいつだって変わるものだ。とにかく準備しろ。監督命令だ」
ここで言い合っても仕方がない。俺が「わかりました」と請け負うと、小津さんは「助かるよ」と言ってウインクした。
それから小津さんは、「撮影交渉へ行く」という言い訳を俺と池里にしてから、白鯨の部員を引き連れてどこかへと歩いていった。事情を知らない池里は、「そういうのって事前にやっておくものだと思ってた」と少し呆れたように呟き、深く息を吐いた。
「ヘンに空いちゃったね、時間。どうしよっか、わたしたち」
「だったら、商店街でも見て周るか」
「別にいいけど。何かあるの、あそこって」
「あまり詳しくは知らないけど、行ってみりゃわかるだろ」
「ノープランってわけね……ま、いいけど」
池里はそう言うと俺の手首を掴み、「行こっか」と言いながら引いた。突然のことに驚き、うろたえ、終いには自分の心臓が高鳴る音まではっきりと聞いた俺だったが、なるべく冷静を装うために「ああ」と低い声で返して、池里に引っ張られる形で歩き始めた。
巣鴨駅から歩いてすぐのところにある地蔵通り商店街は、〝おばあちゃんの原宿〟などと呼ばれる割と有名な商店街である。観光客向けの店もあることにはあるが、大半が地元の人が通うための店で、古臭いミシン屋や家具屋、八百屋に魚屋、冴えない雑貨屋や婦人向けの洋服店など、既に絶滅危惧種となって久しい店が並ぶ通りだ。
商店街に入ってすぐのところにある大福屋で名物という塩豆大福を買った俺達は、それをかじりながら商店街をのんびり歩いた。甘さが抑えられたこの大福は、どうやら池里の口には合わなかったらしく、一口食べる度に「ヒンジャクな味」「大福の長所を消すだなんて愚の骨頂」などと独自の感想を述べた。
「大福って、そりゃこんな砂糖と炭水化物の塊みたいなもの身体にいいわけないよ。でも、こっちはそれを承知で食べてるんだから、わざわざ控えて貰う必要なんてどこにも無いわけ。大福なんて身体に悪くてナンボなわけ。江波くんもそう思わない?」
池里がそう力説しながらずいと顔を寄せてきたせいで、俺は「まあな」と短い言葉でしか返せなかった。
「なによ。素っ気ない感じ」
「距離が近いんだよ。少し離れろ」
「いいじゃない別に。減るもんじゃないし」
まったく、調子の狂う奴だ。見た目の通り清楚で大人しくっていうのが出来ないのか。という言葉を呑み込んだのは、赤くなった顔を誤魔化すためにそっぽを向いていたからである。
商店街を歩くうち、俺達は高岩寺という場所まで辿り着いた。寺の外観をじっと眺めていた池里が、「お参りでもして行こっか」と言い出したので、そうすることにして俺達は門をくぐった。
線香の匂いがする煙をくぐりながら短い参道を進み、本堂の賽銭箱のところまで来る。小銭を投げ入れ、手を合わせて拝みつつ、隣の池里を横目で見れば、柄にも無く真剣な顔をしている。どんな願掛けをしているのかと思い、お参りが終わった後で訊ねてみたら、「『クロスXレンジ・チャプター2』が名作でありますようにって願ってたの」という答えがあって、呆れながらも思わず笑った。
それから俺達は境内にあるベンチに腰掛けて過ごした。無人販売所からおみくじを買ってきた池里は、じっと黙ってそれを見つめている。こっそり覗き込むと、たまたま『恋愛』と書いてあるところの、「多分望みは薄いでしょう」という言葉が目について、何故だか慌てて目を逸らしてしまった。
なんだか頭がぼぅっとする。背筋には寒気が走る。小津さん達はまだ撮影を終えてくれないのだろうか。もう三十分は経ったと思うのだが。
そんなことを思っていると、池里が「あのさ」と話しかけてきた。
「今日の撮影が終わった後、一緒に映画でも観ない? 監督さんから聞いたんだけど、白鯨専用のプライベートシアタールームがあるんだって」
「知ってる。『ミヤモト』だろ? でも悪いな。今日は予定があるんだ」
「かわいい女の子からのお誘いよりも大事な予定?」
「自分で言うか、そういうこと」
「自分で言うの。わたしの場合は」
「たいした自信だな。でも、今日はどうしても無理だ。大切な用事がある」
「それなら、明日でもいいよ。それが駄目なら、明後日でも、明々後日でもいい。江波くんと一緒に映画が観たいの」
「……わかった。それなら明後日に観よう」
「約束だよ。忘れたら許さないんだから」
そう言ってこちらに微笑みかけた池里の目から、一筋の涙がこぼれた。「どうしたんだろう」と不思議そうに言った池里は手の甲で目元を拭ったが、涙は一向に止まらない。笑いながら泣く池里のその表情を見て、俺は心臓を凍った手の平で包まれたような気分になった。
泣いている池里を前にしてどうすればいいのかわからなかった俺は、ただ「大丈夫か」と繰り返すことしか出来なかった。その度に池里は「平気だよ」と繰り返していたが、だんだんと嗚咽が混じるほどの泣き方になってきて、少しするとその「平気」も返ってこなくなった。周囲から視線が集まる。どうすればいいのか、いっそうわからなくなる。
その時、誰かが俺達の方へと駆け寄ってきた。見れば、黒沢さんと北野のふたりだ。黒沢さんの方は池里をなだめるように背中を撫で始め、北野は俺に耳打ちした。
「ここはアタシたちに任せて、ちょっと離れてくれないスか?」
俺は北野に言われるままに寺の外へと出た。出たところには園が待っていて、俺を近くの喫茶店まで連れて行った。店には他の白鯨部員がいて、険しいような、それでいてどこか笑っているような難しい顔で俺を出迎えた。
「驚いただろう、江波」と小津さんが言いながら、俺に席を勧める。「ええ」と答えながらそこに座った俺は、背もたれに深く体重を預けた。
「どうしたんですか、アイツは」
「例の事故の後遺症かどうかは定かではないが、時々あのように感情がコントロールできなくなるらしい」
「そうですか」と答えて俺は息を吐いた。吐く息がやけに熱かった。
〇
しばらくすると、黒沢さん、北野と共に池里が戻ってきた。照れたように笑いながら「ご迷惑おかけしました」とこちらへ頭を下げた池里は、俺達の座るボックス席へ腰掛けようとしたが、直前に小津さんが「待て」と止めた。
「今日はこのまま解散だ。続きはまた明日にしよう」
「わたしならもう平気です。続けましょう」
「いや、駄目だ。万が一のことがあったらどうするつもりだ?」
強い口調で小津さんがそう言ったのを受けて、池里は唇を噛んで顔をしかめた。ふたりはそのまま睨み合いの形になったが、「駄目なものは駄目だ」と小津さんに念押しされ、池里はようやく「わかりました」と諦めた。
池里は黒沢さんと共に先に帰ることになって、ふたりで共に喫茶店を出て行った。残った俺達は車で大学まで戻り、撮影機材を片づけてから解散した。例の映像が未完成だったが、残り作業はたいしたことがないため、小津さんが家で片づけるとのことだった。
大学を出てから家に着くまでのことはあまり覚えていない。ただ、一歩進むごとに頭がガンガン痛んだことと、園が酷く心配した顔で俺の横を歩いていたことは覚えている。
アパートの自室に戻ってからすぐに、俺は寝間着用のジャージへと着替えて布団へ倒れ込んだ。身体の感覚がぼんやりして、目眩すら感じる。動いていないのに頭が痛い。でもたぶん、寝ればよくなる。大丈夫だ、大丈夫。
掛け布団に身を包み、ぎゅっと目をつぶると、意識はストンと落ちていく。
暗い世界に、笑いながら泣く池里の表情が浮かぶのが見えた。
〇
次に目を覚ました時には朝になっていた。喉が渇いてしょうがないが、半身を起こすのも億劫なほど身体が重いせいで、台所へ行こうとは思えなかった。なんとか腕を伸ばし、目覚まし時計を掴んで盤面を見れば、既に十一時を回っている。約束の時間はいつもと同じ、午前十時に白鯨の部室。となると、とんでもない大遅刻だ。携帯を見ると、着信履歴が何件も残っていた。
這いつくばるように移動して台所で水を飲み、それからなんとか着替えと朝の支度をしていると、部屋のチャイムが鳴った。出ると、園がそこにいた。
「どうしたんだい、江波。酷い顔だ」
「悪いな。ちょっと体調が悪くて寝坊しただけだ。すぐに支度する」
「馬鹿言っちゃいけない。駄目に決まってる」
そう言うと園は俺の身体を部屋に押し込み、そのまま布団の方へと誘導した。本来ならば園に力負けなんてあり得ないのだが、今日はいくら抵抗したところで無駄だった。
起きてから十分足らずで布団に戻った俺は、後頭部に枕を預けた。何がなんでも起きなくちゃいけないという意思が、使命感が、毛ほども役に立たなかった。目をつぶっていると、冷たい感触が額に乗せられた。続けて、「なにか飲み物を買ってくるから」という言葉が残されると共に、部屋から人の気配が消えた。
どれだけ時間が経ったのかわからない。やがて、二人分の足音が部屋に入ってくるのが聞こえてきた。薄目を開けてみると、心配そうに眉を下げる池里がこちらを見ているのが視界に入った。
「江波くん、大丈夫?」
明日からまた〝はじめまして〟になる奴を、こいつは本気で心配してくれている。そう考えた瞬間に熱いものが込み上げてきて、我慢出来なくなった。
俺はただ、「ごめん」と呟いた。それしか出来ない自分が歯痒かった。池里は「別にいいの」と言って微笑み、俺の額の汗を濡れタオルで拭いた。
「いいわけがない。ごめん、池里。ごめん」
「いいの。まだまだチャンスはあるんだから」
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