リープ34 インセプション その4
夜の七時を過ぎてなお、パーティーは続いている。
小津さんはワインの瓶を次々と空にしながら檜山に絡み、三池さんは「三日分の食費は浮かすぜ」とばかりに宅配ピザや寿司を手当たり次第に食い、池里と北野と黒沢さんはサワーの缶を片手に映画話に花を咲かせ、そして園は、鮫が海賊をバリバリと食い殺す〝レッド・オーシャン〟のワンシーンを観たせいで、体調を悪くして部屋の片隅で空のペットボトルを枕にして寝込んでいる。俺の役目はこいつの御守だ。ビールの缶を片手に、うちわを使って風を送ってやっている。
昼間の件があったから、檜山が何か良くないことを言いだすのではないかと思っていたが、それを知ってか知らずか小津さんが抑えつけているので、問題が起きることはなさそうだ。
そんな風に安心していると、園が「ごめんよ」と力ない声を絞り出した。
「気にすんな。俺が映画を観ようって言いだしたんだ」
「そうじゃないんだ。その、池里さんについて」
「別にそっちも気にしてない。というか、謝られることでもないだろ」
「そうなんだけど、その……ごめん」
体調が悪いせいなのか、園はやけに辛気臭い。一旦ひとりにしてやった方が落ち着くだろうかと考えた俺は「バカ言うな」と言ってやり、部屋を出てトイレへ向かった。
のんびりと用を足して戻って来ると、園は部屋の隅にパイプ椅子を置いてそこに座っている。どうやら座って過ごせるまで回復したらしい。冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、それを園に渡しつつ「どうだ」と聞くと、「もう大丈夫」という答えがあった。顔がまだ少し青いから完調とはいえないのだろうが、もう心配するほどでもないだろう。
俺は園の隣にパイプ椅子を引っ張ってきて、そこに座りながらビール缶のプルタブを開けた。缶を傾けつつ部屋を見ると、池里の姿が見当たらない。トイレか何かだろう。
「ねえ、江波。池里さんと話して、どうかな?」
「どうって、何を聞きたいんだよ」
「だから、その……ソワソワとか、ワクワクしないかってこと」
「もっとハッキリ言え」
「だから、彼女を好きにならないのかってこと!」
やけに必死な様子の園に呆れた俺は、思わず頭を抱えた。いくら酒を飲んだとはいえ、なにも恋愛感情覚えたての小学生みたいなことを言わないでもいいだろう。
「なるか。なるわけあるか。昨日会ったばっかりの相手だぞ」
「でも、いつか君から聞いたことがあるよ。かわいいなと思うことは、一目惚れと同義だって。池里さんをかわいいと思ったことは?」
「……無いことは無い」
「だったら、それは好きと同じだろう? だって君がそう言い出したんだから」
「わかったよ。もういい。で、もしそうだとしたらなんだってんだ」
「別に。そのまま彼女を好きでいて欲しいだけ」
「……飲みすぎだぞ、お前」
俺はビールを一口飲んだ。なんとなく、先ほどよりも温く感じた。
酔いがさらに回ってきたのか園が遠くを眺め始めたので、俺もそれに倣ってぼぅっとした。すると必然、アルコールが身体に回り始めてうつらうつらとしてくる。騒がしい声が遠くに聞こえるのが心地よい。
「ふたりとも、起きてください!」
突然の声に身体が跳ねて目が覚める。ぼんやりした視界に映るのは黒沢さんだ。なんだか、やけに焦ったような表情をしている。俺は「どうしました?」と口元に垂れた涎を拭いながら訊ねた。
「大変なんです! いないんですよ、真春ちゃんが!」
〇
黒沢さんの話によると、「少し酔ったみたい」と残して部屋を出た池里が30分近く戻って来ていないらしい。付近のトイレはもちろん、体育館にあるシャワー室、サークルの部室なども探したが、影も形もない。電話も出なければ折り返しの連絡もない。北野と檜山が大学の近くにある池里の下宿先に向かったが、帰っていなかったという連絡が先ほど入ったとのことだ。それで、居ても立っても居られなくなった黒沢さんは、もう一度構内を探すために少しでも多く人手が欲しく、俺達を起こしたのだという。
幼稚園児ではないのだから、何も言わずにどこかに消えるということは無いとは思ったが、例の〝病〟のこともある。黒沢さんがここまで心配するだけの何かがあるのだろう。俺は残った白鯨のメンバーと共に、手分けして池里を探し始めた。
授業教室、ベンチ、食堂など、構内の各所をあちこち周った後、念のために撮影にも使った四号館の屋上へ出てみたが、案の定見つからない。既に空に夜が広がっており、風が吹けば背筋が少し寒くなるほど空気が冷たい。
「どこ行ったんだよ」と呟きながら屋上のフェンスに背を預け、ふとサークル棟の方を見た時、俺は思わず「なんだ」と息を吐いた。というのも、白鯨の部室から蛍光灯の白い光が漏れているのが見えたからである。まったく、心配かけやがって。
駆け足で屋上を後にした俺は、そのまま真っ直ぐ白鯨の部室まで向かった。部屋の前まで来ても、なお灯りは点いているままだ。
脅かされた仕返しだ。脅かしてやれ。そう考えた俺は音を立てないように忍び寄り、一、二の三で勢いよく部屋の戸を開く――が、そこにいたのは黒沢さんで、どういうわけだか彼女は、アルバムのような何かを机に広げて眺めていた。
「黒沢さん。どうしたんですか、こんなとこで」
突然の登場に驚いたのか、俺の問いに答えることなく固まってしまった彼女だったが、やがて「違うんです!」と慌てたように繰り返しながら急いでアルバムを片づけ始めた。いったい何が違うのかと思いながらも、一応それを手伝おうとしたが、彼女は「いいですから!」と腕を広げて頑なに俺の助けを拒む。
訳がわからないながらも、「それなら」とその場を退散しようとした俺だったが――机上のアルバムに挟まれた一枚の写真に目が留まったせいで、否応なしに足が止まった。
俺の視線に気づいた黒沢さんが倒れ込むように机に覆いかぶさりアルバムを隠したが、もう遅い。俺はこの眼ではっきりと見た。
池里が、白鯨の面々と仲良さそうに写っている写真の数々を。
「……それ、どういうことですか」
「な、なんのことでしょうか?」
「誤魔化さないでください。それです。そのアルバムですよ」
「えっと、その、ですね、違うんです。これは、これはただ、真春ちゃんがどこに行ったのか、なにかヒントがあるんじゃないかって思って」
「意味がわかりません。どういうことですか」
「違うんです、違うんです……」
同じ言葉を絶え絶えに繰り返した黒沢さんは、なにかを堪えるようにアルバムに顔を埋めて静かに泣き出した。「泣いて何かが解決するわけじゃない」という辛辣な言葉はなんとか堪えたが、だからといって何の話も聞かずにその場を去れるわけもなく、俺は黒沢さんの弁明の言葉をじっと待った。
黒沢さんを除く白鯨の部員は、池里とは一昨日の時点で初めて会ったはずだ。つまり、あのアルバムはあり得ない。あってはならないものである。
しかし、現実としてその、あってはならないものがいま目の前にある。どういう理由があるのかはわからないが、この事実に目をつぶってやり過ごせるほど俺は器用な人間じゃない。
どれだけそうして過ごしていたのかわからない。たぶん、そう長い時間ではなかったと思う。立ったまま黒沢さんの答えを待っていると、背後から誰かが走ってくる足音がした。肩越しに観れば、笑顔の園がこちらへ手を振りながら向かって来ている。ちょうどいい。アイツに聞いた方が早そうだ。
俺は振り返りざま腕を伸ばし、園の両肩を掴んで引き寄せた。
「おい、園。どういうことだ。説明しろ」
「ちょ、ちょっと! どういうことだは僕のセリフだって! 僕は池里さんが見つかったからふたりを呼びに来ただけで――」
「そうか。そりゃよかった。でも聞きたいのはあのアルバムのことだ。なんで池里がお前達と一緒に撮った写真があるんだよ」
一転、表情を暗くした園は視線を足元へ向ける。よほどあの存在を俺には知られたくなかったと見える。
ふたりの表情から、俺をからかうためにこんなことをしたわけではないのは明らかだ。しかし、だからこそ、あの真実を隠していた理由を知らなければならないと思った。
やがて園が「わかった」と呟いた。強い視線がこちらへ向けられていた。
「教えるよ、全部。でも、ひとつだけ約束してくれないかな。これから話すことは、池里さんには話さないで欲しい」
〇
部室を出た俺は、早足で歩く園の後ろをついて行った。道中、池里はどこにいたのかということを訊ねると、酔い覚ましも兼ねて、学校外の薬局までのんびりとスポーツドリンクを買いに出ていただけだという答えが返ってきた。電話にも出なかったのは、ただ電池が切れていただけらしい。人騒がせな奴だと思うと同時に、とりあえず安心した。
園は大学の正門前までやって来たところで足を止め、そこでようやく俺の方を向いた。眉間にしわを寄せた、思いつめたようなその表情は、何から話そうかを思案しているようだった。
やがて、園は重そうな唇を持ち上げてゆっくり喋り始めた。
「……池里さんが白鯨に入ったのは、去年の九月だった。黒沢さんが彼女のことを臨時スタッフとして引っ張って来てね。それで、その時の彼女の仕事ぶりに惚れ込んだ小津監督が、半ば無理やり彼女を白鯨に引き入れた。まったく、彼女にとっては迷惑なことだったと思うよ」
必死に言葉を選ぶような喋り方に嘘は感じられなかった。だから俺は園がいくら言葉に詰まろうとも、いくら無駄話に感じるようなことを喋ろうとも、決して遮ることなく黙って聞いていた。
「池里さんは僕達と共に白鯨の部員として活動を続けた。彼女はいつも困ったように笑いながら、ここでの活動を楽しんでいるようだった。でも、つい三か月前に問題が起きた。彼女は交通事故に巻き込まれて、頭を強く打ったんだ。幸いなことに命に別状はなかったんだけど……そのせいで、例の〝病〟を発症した」
園は深く息を吸ってから、ひと言ひと言を苦しそうに胃の奥から吐き出した。
「その……信じられないかもしれないけど、彼女の本当の病気は、彼女は……彼女の記憶は、一週間しか持たないんだ」
冷たい風が強く吹いて、俺達の間を通り抜ける。肌が引き締まり、自然と身体が震える。昨日池里が言っていたように、本当に冬がもう一歩手前まで来ているような感覚を覚えた。
俺が言葉を返さなかったのは、なんと言えばよいのかわからなかったからだ。どういう顔をしていいのかわからなかったからだ。
だから俺は黙ってうつむいた。するとしばらく間を置いて、再び園が喋り始めた。
「彼女の記憶は、事故が起きる一年前の日付である去年の十月二十七日から十一月の二日までをひたすら繰り返すようになった。もちろんあらゆる検査はしたし、試せる治療法は全て試した。それでも彼女は治らない。そこで、黒沢さんが提案したんだ。日常の中に、何かきっかけになる出来事があるかもしれない。だから、池里さんに普通の大学生活を送らせてみたらどうかって。彼女の両親はこれに賛成して、彼女の主治医もゴーサインを出した。黒沢さんも、白鯨のみんなも、たぶん本気で池里さんを治せるとは思ってないんだと思う。ただ、池里さんに、いつもと変わらない日常を、思い出を、残してあげたいだけなんだと思う。……そして、僕はそんな彼女の手助けをしたいんだ」
そう言って園は崩れかけの笑みを浮かべ、俺に手を伸ばした。握手を求めているのだとわかった。
「江波、改めて言うよ。僕達に協力してくれ。繰り返す彼女の一週間を少しでも華やかにするために、君の力を借りたいんだ」
園の気持ちを理解出来たと言ってしまえば、間違いなくそれは嘘になる。こいつの経験を、こいつの苦労を、こいつの諦めたような笑顔の意味を、少し話を聞いただけの俺なんかがわかるわけもない。
でも、そんな俺だってわかる。こいつのやっていることが、ひとつ残らず間違っていることくらい。
「事情はわかった。でも、協力出来ない」
はっきりそう言うと、園の笑みが音も無く崩れた。それを見て、俺はよほど「冗談だ」と言ってやりたくなったが、そんな姑息な慰めなんて園のためにならないと思い直し、同情を押し殺してさらに続けた。
「……園。お前の気持ちは立派だ。でも、お前のやってることは褒められない。お前は、お前達は、池里を同じ時間に縛り付けてるだけだ。前に進ませないように、後ろから腕を引っ張ってるだけだ。違うか?」
「そんなこと」と呟いた園は、俺の胸ぐらを掴んで力なく締め上げた。苦しいとは微塵も思わなかったが、涙に濡れたその顔は目を背けたくなるほど痛々しかった。
「わかってるよ、そんなことっ! でも、他にどうしろっていうんだよ! 僕達に出来ることは、彼女が傷つかないように、毎日素敵に過ごせるように、手伝ってやることくらいじゃないか!」
「諦めてどうすんだ。それで何か解決するのかよ」
「口だけならいくらだって言えるさ! 君は覚えていないだろうけど、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も繰り返した! ……でも駄目なんだ。何をしようと彼女は治らない。いくら仲良くなったって、八日目には〝はじめまして〟だ。僕には……どうすることもできない……」
悔恨だとか、諦めだとか、自虐だとか皮肉だとか怒りだとか……様々な感情を一度に爆発させた園は、顔を覆いながらその場にうなだれた。
もう一度吹いた強い風が、小さく聞こえてくる嗚咽を空へと運んだ。
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