第27話


         ※


「ッ……」


 俺が五感を取り戻したのは、十秒ほど後だった。すぐさま顔を上げ、周囲の状況を見遣る。


「ほう、まだ顔を上げられるだけの力を残しておられるのですね。流石ですな」


 俺の背後で、どしゃり、と砂利が跳ね上がる。はっとして立ち上がり、振り返ると、そこにはオウガが腕を組んで立っていた。無傷で。羽織っているローブにも、傷一つ見られない。


 二メートル半はあろうかという巨躯から、ずいっと見下ろされる。

 その顔は、どこをどう見ても特徴がなく、形容しがたかった。敢えて言えば、俺が以前見た悪夢に出てきた『のっぺらぼう』に似ていないでもない。


 だが、観察は後回しだ。今はコイツの強靭過ぎる防御力の謎の方が問題だ。


「てめえ、一体……!」

「お察しになりませんか? バリアなどなくとも、わたくしは平気でございますよ。これが、血肉の隅々まで魔力を充溢させた者にのみ許される奥義、『身体結界』です」

「身体、結界……」


 こいつ、わざと弱いバリアを展開して、本命の機関砲とロケット弾は結界で防いだのか。

 俺はバリアこそが、魔力によって具現化できる防御策の際たるものだと思っていた。だが、全身がバリア以上の強度を誇っているのが相手だとしたら、いくら戦っても勝ち目はないではないか。


 俺の胸中を絶望が占め始める中、視界に動くものが入ってきた。


「ッ! よせ、夏鈴!」


 しまった、夏鈴の奇襲をオウガに知らせてしまった。

 しかし、結果は変わらなかった。横っ飛びした俺の反対側から、夏鈴が榴弾を発射する。爆炎がローブを揺らめかせるが、傷ついたようには見えない。


 にも関わらず、オウガは振り返った。ゆったりとした所作のまま、その顔に微かな笑みさえ浮かべて。


「おやおや、勇敢な兵隊さんがいらっしゃるものですね。しかし、不意打ちとは褒められたものではありませんよ」


 しかし俺は確信していた。オウガは、夏鈴の存在に気づいていた。それで、遊び半分で彼女の勇気を試したのだ。

 オウガの向こうで、第二弾を装填しようとする夏鈴の姿が目に入る。駄目だ、夏鈴。こいつには効かない。逃げろ。


 一瞬で、オウガの体内を巡る魔力がその手先に集まる。ふと、夏鈴の顔に絶望の色が宿る。


「やめろおおおおおおおっ!」


 俺は魔弾を形成することもできず、横っ腹からオウガに抱き着いた。そのまま体重をかけ、バランスを崩す。しかしこれでは、狙いを逸らせきることはできない。

 さっと夏鈴はしゃがみ込んだ。それだけで回避できるのか? 俺は全身から血の気が引くのが分かった。


 次の瞬間、見たこともないような電撃が、オウガの右手の先から迸った。ドン、と落雷のような音が轟く。魔力を研ぎ澄ませた、必殺の一撃。だが、妙なことが起きた。

 その電撃は、夏鈴の頭上の木々を薙ぎ払うだけで、彼女には掠りもしなかったのだ。どうやら、夏鈴はしゃがみ込む際に倒木の陰に入り、転がって電撃を回避したらしい。


「ふむ。この方はあなたのご友人、あるいはより親密な仲のご婦人とお見受けします、翼様。それが分かっただけで、今後の作戦の立てようもあろうかというものです」

「何が言いたい!」


 するとオウガは、ゆっくりと右手を下ろし、静かに俺から自身の身体を引き離した。


「ただ一つ、お答えいたしましょう。もし次回、あなた様がわたくしめの要請を受け入れず、人間に加担しようと仰るのであれば――」


『あなたを殺します』。限りなく冷たい声で、背を向けたままオウガは言った。


「我らが魔界に栄光を!」


 そう高らかに宣言するや否や、オウガの姿はワームホールの向こうへと吸い込まれていった。いや、自ら浮き立って行ったというべきか。


「ぐっ……。皆、無事か! 生存者、名乗れ!」


 思いの外、付近から波崎の声がした。あちこちから声が上がり、ほとんどの戦闘員が存命であることが分かる。

 その中心近くで、俺はただ突っ立っていた。


「翼!」

「……」

「翼、怪我はないか? 大丈夫なのか?」

「あ、ああ、夏鈴……」


 先ほどとは逆に、今度は俺が呆然としていた。気づけば、背中やら肩やらをバンバンと叩かれていた。夏鈴が俺が負傷していないか、確認しているのだ。


「だっ、大丈夫だよ!」


 と声を上げたはいいものの、ふらり、と強烈な目眩が俺を襲った。ああ、魔力切れか。


「お、俺は無事だ。少し、休ませて、くれ」


 ゆっくりと膝を着き、上半身をばったりと地面に委ねた。微かに、夏鈴に名前を呼ばれている気がしたが、気のせいだったかもしれない。


         ※


 ゆっくり目を見開いた俺は、思わず呟いた。


「またここで世話になるとはな……」


 言うまでもなく、俺がいるのはCS医療棟の個室だ。真っ白な天井も、桃色がかったカーテンも、心電図モニターの機械音も、全く一緒である。心電図って、別に俺は死にかけたわけじゃないんだが。


 すると、最早聞き慣れてしまった合成音声が呼びかけてきた。


《如月夏鈴三尉がいらっしゃいました。入室を許可しますか?》

「ああ。許可してくれ」


 すると、今度は落ち着いた足取りで、誰かが近づいてくる気配がした。


「翼、カーテンを開いてもいいか?」

「ああ。って、おっ、お前! なんで包丁なんて持ってるんだよ!」

「そんなに驚くことはないだろう、林檎でも剥いて食べさせてやろうと思っただけだ」

「あ、そ、そうですか」


 何故か敬語になる俺。夏鈴は、包丁と反対の手に持たせた籠をテーブルに置いた。林檎と蜜柑がごろごろ入っている。

 

「丸椅子、借りるぞ」

「ああ」


 俺の着席許可を得て、早速林檎の皮を剥き始める夏鈴。手慣れたものである。


「あ、そうだ。食器がどこにあるんだか――」


 と俺が言いかけると、夏鈴はさっとテーブル下の棚を開けた。

 

「これ、使ってもいいか?」

「お、おう。悪いな、夏鈴」

「いや」


 しばし、林檎の皮が擦れるするするという音が続いた。


「ほら、翼」

「おう、サンキュ」


 俺は早速、八つ切りにされた林檎の一片を口に含んだ。うむ。美味い。


「時に翼、相談があるのだが」

「んあ?」


 どうしたんだ、突然神妙な顔をして?


「翼には、恋仲の人物はいるのか?」

「ぶっ⁉」


 ブランケット上に、林檎の破片と俺の唾液が飛散した。


「とっ、突然……げほっ、突然何を言いだすんだ?」

「じゃあ、いないのか?」


 次の瞬間に思い浮かんだのは、カマキリ戦の後、気絶した夏鈴のそばに急行した時のことだ。確かに、俺の心に、夏鈴への恋慕の気持ちが存在することは事実だろう。それに、他に恋愛対象として見ている女子はいない。


 そこまで頭を整理してから、俺は『いない』と端的に述べた。しかし、夏鈴の詰問は続く。


「その、お前の恋愛対象として、私では不足か?」

「ぐはっ!」


 俺は思わず腹に手を当て、上体を前のめりに倒した。

 如月夏鈴、彼女はどうして、こうも直球ばかりで攻めてくるんだ? 逆にこちらが緊張してしまう。


 だが、俺の頭の一部では、ゆっくりではあるがきちんと理論が構築されていた。

俺が言いたいことは――。


「夏鈴、聞いてくれ」


 すると夏鈴はピン、と背筋を伸ばし、真っ直ぐ俺を見た。その目を覗き込むように。


「ゆっくり考えたいのは山々だけどな、今はいわゆる有事だから、悠長な話はしていられないんだ」


 事実である。俺はオウガを倒し、どうにか魔族による現界侵略を阻止せねばならない。

 しかし、夏鈴は気づかない。俺が話題を逸らそうとしていることに。


「じゃ、じゃあ、今の段階でいい。私は翼にとって、その、恋人になるのに相応しいのか?」

「……」


 俺は黙り込んでしまった。夏鈴の好意が嬉しくないわけがない。だが、それは『勘違い』ではないかと、俺は疑っていた。


「夏鈴、吊り橋効果、って知ってるか?」

「え? ああ、高所にいる恐怖心から心拍数が上がって、『自分は隣にいる人物に好意を抱いているのだ』と勘違いしてしまう、という話か?」

「それだ」


 俺は顔を向け、真っ直ぐに夏鈴を見つめた。まだ釈然としない顔をしている。


「考えてもみろ。俺たちは何ども修羅場を乗り切ってきたんだ。そこで培われた絆、っていうのはあると思う。でも、それは恋愛感情とイコールじゃない。夏鈴はちょうど、吊り橋効果に陥っているんだ。お前の心にあるのは、俺への好意じゃなくて、日々戦いに明け暮れているが故の、緊張感から生じた錯覚だ」


 夏鈴は俯き、眉根に皺を寄せた。

 そして、長い沈黙があった。他者の来訪がなかったのは、僥倖というべきだろう。


「つまり翼」

「ん?」

「お前は、私の気持ちに偽りがあると、そう言いたいのか?」

「いやいや、偽りだなんてそんな――」


 と言いかけて、俺は喉を詰まらせた。

 夏鈴が、涙を拭っていたからだ。

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