半人魔王の戦闘日誌《ダイアリー》

岩井喬

第1話【プロローグ】

【プロローグ】


 気づけば、俺は真っ暗な校舎の中を駆けずり回っていた。

 真っ暗と言ったが、それには語弊がある。目には暗く見えるものが、頭では薄ぼんやりと輝いているように知覚されたのだ。

 壁や床、天井から窓のサッシまでもが、妖しい色をまとっている。ピンクとか、水色とか。

 なかなか混じり合うことのないこの二色。それに加えて、屋外の闇が濃紺となって迫ってくるような感覚が、俺を捕らえて放さない。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺の周囲の空気がどろりとした触覚を残しつつ、後方に流れてゆく。下手をすれば、足が絡まって転倒してしまいそうだ。


「なっ、何なんだよ、この空気は……」


 息を切らしながら、畜生、と悪態をつく。

 俺は一旦足を止め、身体をくの字に折って荒い呼吸を繰り返した。


 ゆっくりと顔を上げる。何とか、一階から二階へ上がる階段下にまでは到達した。だが、目指す我らが二年五組は、階段から見て最も遠い。俺はもう一つ悪態をつき、倦怠感を振り払おうとした。


 もし俺が普通の精神状態だったとしたら、この状況がツッコミどころ満載であることに気づいただろう。


 何故俺が夜中に学校にいるのか。

 吸うだけで息苦しくなるこの空気は何なのか。

 蛍光灯が点いているわけでもないのに、校内が薄ぼんやりと輝いているのは何故か。

 どうして自分の教室を目指しているのか。


 しかし、今はそんなことはどうでもよかった。

 二年五組へ。とにかく急いで二年五組へ行かなければ。その一心で、俺は反応の鈍い全身の筋肉に喝を入れ、階段を上り始めた。


 階段の一段一段が、凄まじく高いように錯覚される。

 足元にまとわりつく空気は相変わらずねっとりとして、油断したら足元をすくわれそうだ。


 手摺を頼りに、二階を目指す。いや、だからどうしてなんだ。この異様な校内の状況は何だ。


「ああっ、たく!」


 考えてみてもキリがない。頭の中まで、この濃密な空気に侵食されているような気さえする。


 踊り場を経て、階段を上りきった俺は、そのまま前のめりに転倒しそうになった。

 これ以上無益な類推をするだけの気力は、俺の脳内に残っていない。


 俺が窓側の壁に体重を預けながら、何とか前進を試みていた、その時だった。


「ん?」


 誰かが、二年五組から出てきた。

 輪郭のはっきりしない、白い人影。随分と長身で、この暑いのにも関わらずフードのようなものを羽織っている。

 だが、それが人間に似て非なるものだとは、直感的に察せられた。


 白い人影は、ゆっくりとこちらに振り向いた。その様子を見て、俺は戦慄した。

 顔のパーツもはっきりせず、のっぺらぼうに見える。それだけなら、さして怖くはない。問題は、そいつが手にしていたものだ。


 一振りの長剣である。この曖昧な視界の中で、唯一明瞭に存在感を放つ代物。

 あんなもので襲われたら、即死させられてしまう。それは相手の練度にもよるのだろうが、あの人影が相当な腕前であることは、何故か見ただけで理解できた。


「ッ!」


 唐突に、俺の足が止まった。自分の意志とは無関係に。ただし本能的に。

 見えてしまったのだ。日本刀から、真っ赤な鮮血が滴っているのが。


 目撃者を残すまい。そうとでも思ったのか、人影はゆらり、と揺らめきながらこちらに身体を向けた。『うっ』という短い呻き声が、自分の腹の底から絞り出される。


 せっかく前進してきた廊下を、しかし今度は何かに寄りかかることもなく、ジリジリと後退する。

 すると、人影はふっ、と視界から消えてしまった。


「な、何だ……?」


 そう呟き終える前に、人影は俺の眼前に現れた。あまりの速度に、目と脳みそが追いつかない。


 殺される! そう思って目を閉じた。だが、いつまで経っても痛みは襲ってこないし、この意識が失われることもない。

 恐る恐る目を開けると、あの白い人影はどこにも見当たらなかった。上下左右、それに前後と、隈なく視線を走らせる。だが、人影は何の痕跡も残さずに消えてしまった。


「はあっ!」


 窓枠に手をつきながら、俺はようやく息を吐き出した。どうやら俺は、見逃してもらえたらしい。

 ん? 待てよ。人影は二年五組から出てきた。あの剣は血を滴らせながら。ということは――。


「あっ、あいつら!」


 俺はクラスメイトがまだ教室内に取り残されていると察していた。根拠は、やはり勘や本能なのだと言う外ない。

 すると、いきなり霧が晴れたかのように、俺の視界は明瞭になった。全身にまとわりつくような空気も、さっと振り払われる。


 今だ。今のうちに、二年五組に駆け込め。

 俺の脳内で誰かが叫ぶ。そこに何が待ち受けているかも知らずに。


 足元が自由になり、急に活力が戻った俺は、両頬を叩いて気合いを入れてから瞬く間に廊下を駆け抜けた。

 二年五組の前で、滑るように足を止める。そして叫ぶつもりだった。


「おい皆、だいじょ――」


 そう言いかけて、俺は息を飲んだ。

 教室内に広がっていたのが、あまりに悲惨で、残酷で、生々しい光景だったからだ。


 クラスメイトたちが、いろんなところに倒れ伏している。床に大の字になったり、机に突っ伏したり、壁にもたれかかったり。

 俺を除く総勢三十九名が、そうして自らの死体を晒していた。


 流石に皆が死んでいる、などとは信じられなかった。本能は『もう手遅れだ』と告げていたけれど、俺は状況を見定めるべく、教室に足を踏み入れる。いつの間にか、膝が震えだしていた。


「おっ、おい、皆、どうしたんだよ……?」


 大声で呼びかけるつもりだったのに、喉が痙攣して上手くいかない。

 何とか腹から声を出そうと、深呼吸を試みる。それがいけなかった。血の臭いを、思いっきり感じ取ってしまったからだ。


「う、うえっ!」


 堪らず咳き込む。俯き、胸に手を当てて呼吸を整えつつ、視線を上げる。すると、


「ッ!」


 クラスメイトの惨殺死体が、眼前にあった。うつ伏せに倒れ、背中からバッサリの斬り捨てられている。


「うわっ!」


 俺は飛び退き、尻餅をつく。と同時に、びちゃり、と嫌な音がした。

 恐る恐る、床に着いた手を上げて見てみると、強烈な赤がそこにあった。


 だんだん目が慣れてくると、いかにこの教室内が悲惨な状況なのかがよく分かる。

 四肢が付いている死体は、まだマシな殺され方だった。多くは胴体を横一線に二分され、そこから臓物を晒している。腕や足だけがばらけて散乱しているものもあった。

 堪らず俺は嘔吐した。


「げほっ、けほっ……」


 唾を吐き捨て、どうしたものかと考える。早くこの場から逃げ去るべきだ。だが、どこへ? 

 あまりにショッキングな状況のためか、頭痛がし出した。血塗れの掌で額を押さえる。


 ふと、何かが動いた。俺の視界の隅で、誰かが動いたのだ。

 俺は慌てて、這うようにしてそちらに近づく。そこには、一人の女子生徒が、机にもたれかかっていた。


「お、おい、大丈夫か……」


 しわがれた声を上げながら、そっと肩を揺する。反応はない。しかし、確かに動いたはずなのだ。生きているなら、助けなければ。


「しっかり、してくれ……!」


 できる限りの力で、彼女を揺さぶった。すると、確かに動きがあった。ごろり、と回転したのだ。頭部だけが。


 ゴトッ、と鈍い音を立てて、頭部が床に落ちる。ぷしゅっ、と炭酸飲料水を空けた時のように、赤黒い液体が飛び出す。俺の顔にも飛散した。

 俺は自分の脳内から、正気が吸い出されていくのを感じた。同時に、空いたスペースが真っ白に染まっていくのも。


「う、あ」


 しばしの呻き声の後、誰かが俺の喉を通して絶叫するのを、俺は確かに聞いた。

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