第22話
俺の身体には最早、言葉を発するほどの機能は残されていない。当然、頭の中だって真っ白だ。ただそこに、羽奈の言葉だけが、ざくり、ざくりと刺さってくる。
「お兄ちゃん、言ったよね? 私は小学校の頃、虐められてきたって。中学校では平気だったけど。でも虐められてた時の傷、今もあるんだ」
止めろ、止めてくれ羽奈。俺はそんなもの見たくはない。そんな現実、受け入れたくない。
しかし、羽奈はするり、と制服を脱ぎ、背中を見せてシャツを下から捲り上げた。
そこにあったのは、火傷、だろうか? 折りたたまれた翼の下で、ケロイド状の小さな、しかし目立つ傷がある。
「確か硫酸、だったかな。顔にかけてやるって言われたんだけど、それだけは許してってお願いしたの。そうしたら、だったらお前の不気味なオーラが出てる背中にかけてやる、って」
それで、そんな傷を負ったのか。
「あたしが心を許せるのは、もうお兄ちゃんしかいないんだ。だから、他の人がどうなっても、あたしは気にしない。殺しちゃうって? いいよ、別に。友達だって少ないしね」
制服を再び着込みながら、羽奈は言った。
それから目を逸らし、よいしょ、と軽く跳躍して、オウガの前に立つ。
「オウガさん、でしたよね?」
「ああ、羽奈様。どうかわたくしめのことはオウガと呼び捨てになさってください」
わざとらしくかぶりを振るオウガ。
「それじゃあオウガ、あたしを連れて行ってくれるんだね? 魔界に」
「わたくし、そのためにまかり越してございます」
「そこなら、あたしはもっと強くなれるの?」
「左様でございます。わたくしと力を合わせれば、この現界を手中に収めることも」
それから羽奈は一つ頷き、『分かった』と一言。
「あっ、でもおにいちゃ――黒木翼の安全は保証してほしい。我がまま、かな?」
「いえいえ、とんでもございません! お兄様の身柄の安全は、わたくしめが身命を賭してお守り致します」
「ありがとう、オウガ」
さらに額を地面に近づけるオウガを前に、羽奈は宣言した。
「じゃあね、お兄ちゃん」
俺はその笑顔を見つめられずにいた。もう俺の視界は涙でぐちゃぐちゃだし、羽奈を見上げることのできるほどの筋力すら残っていない。
「それでは参りましょう、羽奈様」
それからやっと、オウガは立ち上がった。と思ったら、彼と羽奈の姿は、既にそこにはなかった。ワームホールは急速に小さくなり、後には夏らしい真っ青な空が残された。
※
それから三日間、俺は寝込んだ。CS本部の医療棟でだ。俺の家、否、俺と羽奈のものだった家は、ちょうどその三日間で警察や消防、CS特捜班の捜査を受けた。寝込んでいる間にも、俺は何度も聴取を受けた。
「俺の次は夏鈴、それからまた俺か」
病室のベッドに寝そべり、腕を後頭部で組みながら、俺は呟いた。あまりに声が掠れていて、我ながら狼狽した。
食欲はない。ただただ惰眠を貪る。聴取を受ける時も食事を摂る時も、俺は部屋から出なかった。例外は、トイレとシャワーだけ。
それでも、羽奈が魔界に行ってしまったことによるショックは、俺の心をえぐり続けた。
ごろりと向きを変え、カーテンの向こうを見遣る。誰かが気遣いの視線を注いでいるような気がしたからだ。とすれば、きっと相手は夏鈴だろう。
だが、俺はカーテンを引き開ける気力が湧かなかった。
「羽奈……」
呆然と、その名を呟く。自分の口から魂が抜け出ていくよう錯覚に囚われる。
しかし、口にせずにはいられない。何故か? 彼女こそが、俺にとっての唯一の同類だからだ。
彼女なしで、どうやって生きていけというのだろう。
俺の思考がゆっくりと錆びつき、ギシギシと停止する。
視界が真っ暗になって、闇の中に落ちていく。
まさにその時だった。
《通話モード。音声をお届けします》
という合成音声が流れた。続けて聞こえてきたのは、耳に馴染んだ、揺るぎない声だ。
《もしもし、私。如月夏鈴三尉だ。入室許可を貰いたい》
夏鈴。一体何度訪ねてくれば気が済むんだ。
俺は彼女の来訪を、ずっと突っぱねていた。下手な気休めを言われたくなかったのだ。それ以上に、彼女を前にしたら弱音を吐いて、どうにかなってしまうかもしれないという恐怖があった。
『恐怖』という言い方は大仰かもしれない。だが、自分がどうなってしまうか分からないという気持ちは大きかった。
彼女の存在が俺の胸中でこれほど大きくなったのは、一体何故だろう。
《聞こえているだろう、翼? 入室許可を出してくれ。口頭で述べてくれればいい》
生憎、そのつもりはない。俺はブランケットを引っ張り上げ、頭から被るようにして掴み込んだ。声を発するつもりはない。だが、
《今日はどうしても来てもらいたいんだ。ひとまず、私と会ってくれ》
何だ。今日はしつこいな。ああもう、勝手にしろ。
「入室許可だ、さっさと用件を済ませろ!」
《入室を許可します》
合成音声、ドアのスライド音、部屋を闊歩する足音。その足音は、思いがけない強さで俺の鼓膜を震わせた。
「カーテン開けるぞ」
「ちょっ、一体どうし――」
慌てて上体を起こす。がさり、とカーテンが引き開けられる。
制服姿の夏鈴の姿が目に入った直後、俺はぎゅっと彼女に抱きしめられていた。
言葉どころか、呼吸までもが止まった。柔らかな感覚が俺の両肩に載せられ、甘い香りに意識が遠のきそうになる。
「私だって怖いよ、翼。でも、人間は生きていくんだ。大切な人を喪っても。たとえ目の前の存在が消え去っても、その人がいてくれた事実は絶対消えやしない。私を信じてくれ。家族を喪い、復讐鬼にしかなれなかった、こんな私だけど」
「う……」
唐突な事態の発生に、俺の涙腺は呆気なく決壊した。抱き締められるという出来事は、俺の予想の範疇になかった。それに、それがこうも白昼堂々行われるとは思わなかった。
如月夏鈴。この女、一体俺を何回泣かせれば気が済むんだ。
俺がまともな言葉を発せないでいると、夏鈴は言葉を続けた。
「今日、一緒に登校しよう。友人に会って、気を晴らすんだ。お前は皆のために戦ったんだから、そのくらい許されて当然だろう? 今度は、私がお前を守ってやる」
『車が待機している』。そう言って夏鈴は振り返り、そばのテーブルに置かれていた俺の制服を軽く撫でた。
※
時計を確認すると、まだ朝の六時半だった。制服を着込み、夏鈴に続いて医療棟を出る。送迎車の通った道のりは未だに不明だ。だが、移動時間なら大体把握している。
前回同様の速度で俺たちを学校まで乗せていくなら、ちょうど一時間かかるか否か、といったところだろうか。
俺と夏鈴は、並んで後部座席に座っている。会話の糸口が見つからなかったが、焦りはしなかった。夏鈴が俺を守ってくれると信じていたからだ。
俺は車内で伸びをしたり、指の関節を鳴らしたりして、魔力の充填具合を確かめる。
うむ。良好だ。先ほど抱き締められたのが効いたのか。だとしたら情けない話だが。
「如月三尉、黒木翼様、到着しました」
再び自動で後部座席のドアが開く。
しかし、そこは学校ではなかった。最寄の駅前商店街だった。
人の波はまばらだ。しかし、部活の朝練でもあるのか、生徒の姿はそれなりに目に入る。
どうやら、学校の前まで乗りつけるのは憚られたのだろう。魔族や魔獣を学校に出現させかねない。だからこそ、人の流れの少ない今の駅前に到着したわけか。
「行くぞ、翼」
「お、おう」
だが、俺と夏鈴は全くの勘違いをしていた。夏鈴が相対するべきは、魔獣や魔族ではなかったのだ。
学校に近づいていくと、あちこちから視線が刺さるような不快感を覚えた。
「なあ夏鈴、俺たち目立ってないか?」
「ええ。怪しい」
そのまましばらく歩いてみる。
「少し速度を落とそう。何かの罠かも」
「罠?」
俺は半信半疑だったが、念のため夏鈴の言う通りに歩幅を縮めた。
結局、学校に到着した時には、遅刻ギリギリだった。昇降口にも廊下にも、生徒たちが溢れている。
しかし、やはり何かがおかしい。俺たち、いや、正確には俺を見て、何やら避けようとしているのだ。
「ん……?」
俺が短く唸り、二年五組の前方の扉を引き開ける。すると、騒がしかった教室が一気に静まり返った。
「ういーっす……って、あれ?」
別に目立つほどのこともない俺だが、それは普段ならばの話。今は状況が違うらしい。
教室中央に聡と遥香の姿を見つけた。二人共、自然に振る舞おうとしているようだが、挙動がぎこちない。
俺がそちらを注視していると、正面に蒼白な顔をしたクラスメイトが立っていた。璃子だ。
「な、なあ璃子、何かあったのか?」
すると、璃子はすーーーっ、と息を吸い込み、意を決したように発言した。
「翼くん、今日は休んでもらえないかな?」
「は?」
俺はポカン、と口を開いた。
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