第23話

「帰れ、ってことか? どういう意味だ、璃子?」


 一歩詰め寄る。璃子は顔を上げることをせず、しかし後退する気配もない。


「俺が一体どうしたって――」

「翼くんのことが怖いのよ‼」


 びくっ、と俺は怯んだ。それは、璃子にはあり得ないほどの大声で、切実な思いのこもった叫びだったのだ。いつものおっとりした雰囲気は微塵もない。


「四日前に私、見たの。兵隊さんがたくさんいて、変な人が翼くんの家にいて、そして翼くんが飛び回ってるのを、はっきり見たの。そう、見たんだよ」


 自分で自分を納得させるように、頷きながら言葉を紡ぐ璃子。


「戦ってたんだよね、翼くんは。あの後、空が真っ暗になって……」


 ワームホールの出現まで見ていたのか。となると、こちらはもう言い逃れはできまい。まさか民間人の避難の遅れが、こんな事態を招くとは。


「皆、勘違いしてる!」


 その声に、クラス全体がぎょっとした。夏鈴の声だ。彼女の声を聞いたことのある者は、そう多くはあるまい。だからこそ、驚きが大きいのだろう。

 しかし、璃子は淡々と応じる。


「勘違いってどういうこと、如月さん?」

「翼は皆を守るために、仕方なく戦った! 彼を責めるのは筋違いだ!」

「ってことは、黒木が戦ってたって事実は認めるんだな、如月?」


 今度は璃子の背後から、大柄な男子が声をかけてきた。普段は気のいい奴だと思っていたが、今日はそうとは言えないらしい。


「そ、それは……」


 言い淀む夏鈴。困惑顔の聡と遥香。


「あ、あんたたち、私たちまで戦いに巻き込むつもりじゃないでしょうね?」


 次に声を上げたのは、遥香の友人の女子だ。


「ちょっ、止めなよ!」

「遥香は黙ってて。私たちの命が懸かってるんだよ」


 そうだそうだ、と女子たちのキンキン声が上がる。


「命、って……。俺たち死にたきゃねえぞ!」


 わっとクラスが一丸となって、俺と夏鈴を包囲する。


「お前ら……!」

「いいんだ、夏鈴」


 一歩前に出ようとした夏鈴を、俺は腕を引いて止めた。


「帰ろう」

「でも翼! お前は何一つ悪いことなんて……!」

「何が良くて何が悪いか、それは皆が決めることだ。正義をゴリ押ししてもしょうがない」


 俺は空いた手で夏鈴の腕を掴み、回れ右して教室を、学校をあとにした。


         ※


 俺と夏鈴はとぼとぼと帰途に就いた。帰途と言っても、俺が自宅へ夏鈴を招いた、というだけの話だが。


「ただいまーっと」

「お邪魔します」


 丁寧にお辞儀をする夏鈴。

 ふと、俺は違和感を覚えた。『お帰りなさい』の声がしないのだ。って、当然か。羽奈は連れ去られてしまったのだから。


「暑くて悪いな、夏鈴。今クーラー点けるから」

「ああ、気にしないで」


 そういう夏鈴も汗だくである。


「シャワー使うか?」

「いえ、大丈夫」


 などと問いかけながら、俺は二つのグラスと烏龍茶を準備していた。冷凍庫から角ばった氷を入れ、茶を注ぐ。


「ほれ」

「あ、ありがとう、翼」


 何をするでもなく、俺はテーブルの、夏鈴の正面の椅子に腰を下ろした。

 じっと内装を見回す。正直、ここまで綺麗に清掃されているとは思わなかった。家探しに遭って、いろいろひっくり返されたり、放り出されたりしているものと思っていたが。


 両手でグラスを持ち、ゆっくりと傾ける夏鈴。ふと、俺は気になって尋ねた。


「なあ夏鈴、何か言いたいことでもあるのか?」

「逆に訊くけど」


 そう言ってグラスをそっとテーブルに置く。


「あんたは悔しくないの? あんな目で見られて、罵倒されて、追い返されて。何とも感じないの?」

「人間にどうこう言われてもしょうがねえだろう、俺、これでも魔王の息子なんだぜ」


『ハーフだけどな』と肩を竦めてみせる。


「何だか変、今日の翼」

「何が?」

「そこが。普通、『お前は変だ』と言われたら、怒るものだろう? あんただってそうじゃなかったの?」

「人間と価値基準が違うんだ。放っといてくれて構わねえよ」


 すると、夏鈴は大きなため息をつき、両肘をテーブルに着いて頭を抱えてしまった。

 そして、少し間を置いてからこう言った。


「なあ翼。お前は今まで普通の、現界の人間として暮らしてきたんだぞ? それを今更――」

「だったらどうしろってんだよ!」


 びくり、と夏鈴の両肩が跳ねた。俺自身、突然発してしまった大声に動揺を隠せない。


「だって羽奈は、あっちの世界に――魔界に行っちまったんだぜ? 俺も判断を迫られているのかもしれない」

「馬鹿なこと言わないで!」


 夏鈴は立ち上がった。グラスが倒れ、テーブルに烏龍茶が広がっていく。


「お前も言ったじゃないか、人殺しをするなら、魔族に協力はしないって!」

「じゃあ、人間は俺や羽奈をどう見てる?」

「えっ?」


 きょとん、と目を丸くする夏鈴。


「俺は今日ブーイングに遭った。それはいい。でも羽奈は……あいつは一人で、ずっと虐められてきたのを隠してたんだ。俺ならともかく、羽奈にあんな酷いことをするのが人間だろ? だったら、俺は人間に協力する義理ってもんを感じない」


 俺はこの言葉で、夏鈴を黙らせることができると踏んでいた。が、それはとんだ見当違いだった。

 夏鈴は咄嗟に倒れたグラスを手に取り、俺に向かって投げつけてきたのだ。


「どうわっ!」


 背後でチリチリとガラス片の砕ける音がする。


「馬鹿!」

「おいっ、危ないだろうが!」


 俺が夏鈴の方に顔を戻すと、彼女は肩をいからせ、荒い息をついていた。目はたった今泣き腫らしたかのように真っ赤だった。


「もしお前が人間じゃないなら、せめて人間の気持ちを理解する努力をしたらどうなんだ?」

「ど、努力って言ったって――」


 すると、夏鈴はどすどすと足を鳴らし、玄関まで一気に駆け抜けていった。


「どうしろってんだよ……」


 グラスの破片を片付ける気も起こらず、俺はぼんやりと呟いた。

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