第13話

「……お兄ちゃん?」


 疑いの目でこちらを見上げてくる羽奈。


「ん! あ、ああ」


 俺はさっと顔を逸らし、屈みこんで箸を拾った。そのままシンクに向かい、箸を洗う。

 何とか逃げられた、と思ったが、羽奈は意外なほど強情だった。


「本当のことを言って、お兄ちゃん。まさか、怪物が出たところに行ってないよね? 戦ってなんかいないよね?」


 その真剣な物言いに、俺は思わず噴き出した。


「笑い事じゃないよ!」

「ああ、悪い悪い」


 布巾で手を拭いながら、箸を持って振り返る。待ち構えていたのは、ぎゅっと唇を一文字に結んだ羽奈だ。

 こうなったら、『はっきり嘘をつく』しかあるまい。


「俺は戦ってなんかいないし、そもそもこんな山の中になんて行ってない。そんなことをする動機がねえよ」


 じっとこちらを見つめる羽奈。その瞳が涙を湛えているのが見えて、俺は狼狽えた。


「お、おいおい、どうして泣くんだよ?」

「……いな……わ……だよ」

「ん?」

「お兄ちゃんがいなくなるのが怖いんだよ!」


 突然発せられた大声に、俺は椅子ごとぶっ倒されそうになった。


「あたし、あたし……。もうお兄ちゃんしかいないから。お母さんは死んじゃったんでしょう? お父さんも出張ばっかりで、会った記憶なんてないし」

「ああ」


 俺も頷くほかなかった。

 母が天に召された時、俺は四歳、羽奈に至っては一歳になったばかりだった。

 そして羽奈が、自分こそ母の死の原因なのではないかと疑っているのを、俺は知っている。


 実際、母は病死だったそうわけだし、羽奈の出産と母の死は関係ない。

 だが羽奈は母のみならず、父の失踪についても、深い思い込みを持っている。父は、母の死の責任を俺たち兄妹に押しつけて姿を消してしまったのだと。

 つまり、自分のせいで、家族がばらばらになってしまったというのが、羽奈の持論なのだ。


 だからこそ、羽奈は兄である俺までをも喪うのではないかと心配している、否、恐怖しているのだろう。


「実はね、お兄ちゃん。今まで話したことはなかったんだけど」

「ん?」


 俺は一旦カップ麺をわきに避け、テーブルの上で指を組んだ。


「あたし、虐められたことがあったの。小学校の時に」


 はっとした。羽奈が虐められていた? そんな馬鹿な。


「初耳だぞ、そんな話!」


 俺が目を見開くと、羽奈はさも当然であるかのように、『まあ、今まで他の人には話さなかったからね』と一言。年齢に似合わない、自虐的な笑みを浮かべている。


「あたし、思い切って訊いたんだ。いじめっ子たちに。あたしの何が悪いのかって。どうして煙たがるんだって」

「で、そいつらは何て答えたんだ?」


 すると羽奈は俯き、ぽたぽたと落涙しながらこう言った。


「お前の背中には黒い羽が見えて気持ち悪いからだ、って……!」


 ぞくり、と冷たい金属棒に、背中から腰のあたりまでを貫かれる。そんな感覚に、俺は襲われた。


 どん、とテーブルを叩いて立ち上がる。


「どうして俺に言わなかったんだ! 俺に言ってくれれば、まだ学校の先生にも――」

「だってお兄ちゃんだってそうじゃない!」


 涙を散らしながら、がばりと顔を上げる羽奈。

 その気迫に圧倒されながら、俺は問うた。


「俺が……何だって?」

「お兄ちゃんにだってあるでしょう? 黒い羽が!」


 俺は足元が崩れ去ってしまうような感覚と共に、脱力してすとん、と椅子に腰を下ろした。


「お、お前、いつからそれを……」

「覚えてないよ、そんなの」


 羽奈はテーブルの隅に置かれたティッシュで目元を覆った。


「あたしにだって分からないことはいっぱいある。でも、でもね、お兄ちゃん」


 一際大きくしゃくり上げてから、羽奈はこう言った。


「あたしたち、普通の人間じゃないんだよね」


 最早、気休めを言ってどうにかなる事態でもあるまい。俺には羽奈が、羽奈には俺が、唯一の同族であり、仲間なのだ。

 俺は長いため息をついてから、ゆっくりとテーブルを回り込んだ。背後からそっと、羽奈の両肩に手を載せる。


「大丈夫だ、お前には俺がいる。無茶して戦いやしない。それに今起こってる怪物騒ぎだって、俺たちとは何の関係もないことだ。心配するなよ」


 クーラーの稼働音と羽奈の嗚咽だけが、静寂を波打たせていた。

 羽奈が泣き疲れて眠るまで、俺はずっと彼女の肩を抱いていた。

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