第34話


         ※


 俺は悠々とワームホールを抜けた。そして察した。現界では、時間がほとんど経過していないのだ。俺と親父の面会時間は、精々十秒ほどだろう。何故それが分かったのかと言えば、魔王の息子の勘としか言いようがない。


 無音のまま、俺の頭上からオウガの魔弾が迫る。だが、今の俺にはバリアを張る必要すらなかった。身体結界が俺にも発生している。


「翼!」


 バシュン、と再び音がして、俺の背後でワームホールが閉ざされた。夏鈴が駆け寄ってくる。羽奈はと言えば、言葉を発することもできずに、ぐったりとして夏鈴に肩を支えられている。


「お前が魔界に行ってる間、羽奈は必死にバリアを張っていたんだ! 羽奈の魔力は尽きかけてる! 早くオウガを仕留めてくれ、翼!」

「任せろ」


 俺はヴン、と音を立てて魔剣ファントムを振るう。そして、地に足を着いた状態のオウガに身体を向けた。

 

 あたりを見れば、あちこちにクレーターができている。周辺のビルは屋上が消し飛び、窓ガラスはほとんどが破砕されていた。これほどの密度の退魔爆撃を受けても立っていられるとは、流石は魔界のナンバー2といったところか。


 俺はさっと手を振るい、夏鈴と羽奈にバリアを授けた。そして、声を上げた。


「オウガ、降伏しろ! さもなくば、貴様を地獄に落とす!」


 光るファントムを正眼に構える。オウガは無言で、しばしこちらを見つめていた。

 まるまる一分は経過しただろうか。


「分かった。降伏する」


 すっかり静まり返った廃墟に、その声は朗々と響き渡った。

 待てよ? 『朗々と』?

 ゆっくりと両腕を上げていくオウガ。その手の間に短い魔剣が生成されたのは、一瞬の出来事だった。


「ッ! 全員伏せろ!」


 叫びながらも、俺の頭は働いていた。

 そうか。オウガが手を掲げるまで一分間もかけたのは、不可視化したまま強力な短剣を造り出すためだったのだ。

 そんな時間を与えてしまうとは、俺はどれほどの馬鹿なのだろう。


 俺は振り返りざま、硬化魔法をバリアに放った。しかし、発動に僅かなタイムラグがある。

 いくら魔力を充溢させても、限界はある。その結果、オウガの短剣が一瞬早く、夏鈴と羽奈を守るバリアに突き刺さった。

 俺の掌を貫通した時のように、短剣は変形する。巻貝状に、バリアを抉るように。


 バリアの中央にいたのは夏鈴だ。このままでは、彼女が串刺しにされてしまう。

 だが、夏鈴は動かなかった。


「馬鹿! 伏せろ!」


 俺は絶叫した。それでも、夏鈴は動かない。何故伏せようとしないんだ、夏鈴。

その疑問は、彼女の毅然とした表情を見て霧散した。

 夏鈴は、そばにいる羽奈を守ろうとしているのだ。狭いバリアの中では、ろくに身動きが取れない。だったら自分が犠牲になろう。そう考えているに違いない。


 やがて、ぐしゃり、と生々しい音を立てて、短剣は吸い込まれていった。

 ――羽奈の腹部へと。


 驚愕の表情を浮かべる夏鈴。その顔には、真っ赤な鮮血が飛び散っている。

 そんな、馬鹿な。羽奈は立っているのもやっとの状態だったのに。まさか、夏鈴を突き飛ばして、自分が短剣の前に身を捧げるつもりだったとは。


「羽奈っ‼」


 呆気なく消え去る短剣。膝を着く羽奈。咄嗟に彼女を抱きかかえる夏鈴。

 俺はその光景に釘付けになった。しかし、それも数瞬のこと。背後から迫る殺気に向かい、ファントムを振るわなければならなかった。


 俺が振り返ると、そこにあったのは魔弾でも魔剣でもなかった。オウガの身体、そのものだった。


「遅い!」

「ぐぼっ⁉」


 強烈なアッパーカットが腹部にめり込み、俺はファントムを手離した。

 身体結界を使っているのにこの威力。俺は堪らず前のめりになり、吐瀉物をぶちまけながら倒れ込む。

 かと思いきや、今度は顎に、強烈な爪先が食い込んだ。俺は全身が脱力したまま、ぐるん、と後方に縦回転し、べしゃり、と歪んだアスファルトに仰向けになった。


「人質は取らないと言ったはずだ、黒木翼。それなのに女共の心配をするとは。貴様の敗因は、それだ」

「ッ……」

「貴様の存在は危険すぎる。ここで始末させてもらうぞ」


 そう言い切ると同時に、オウガは俺の腹部を思いっきり踏みつけた。


「があっ!」


 俺の口からも鮮血が溢れ出す。胃だか肺だかを潰されたのは間違いない。

 死ぬ。その二文字が、否応なしに俺の頭を埋め尽くす。

 せっかく親父に力を授かってきたのに、妹の仇すら討てないのか。


「くたばるには早いぞ、黒木翼。防御性魔力で強化されたその身体、私の攻撃性魔力を前に、どれほど持ちこたえられるかな?」


 俺は呆気なく蹴飛ばされ、転がされ、馬乗りで何度も顔を殴打された。普通の人間ならば、一発で頭蓋骨が粉砕されるに違いない威力だ。


 しかし。

 身体結界の制御は上手くいかないが、魔力炉は生きている。俺のもう一つの心臓だ。

 その鼓動を信じて、俺は念じた。


 ――魔剣ファントム、俺の眷属として、貴剣の力を以てオウガを打ち倒せ。


 頭の中に浮かんだフレーズを、そのままテレパシーの原理で周囲に発した。

 すると、思いがけないことが起こった。ふっとファントムが消え去り、代わりに俺の手元に柄が出現したのだ。

 その事態に、オウガはさっと立ち上がってバックステップ。距離を取ってバリアを展開する。


 しかし、今の俺には大した問題ではなかった。光り輝く魔剣が、ざっ、という鋭利な音を立てて柄から伸びていく。

 テレポーテーションの一種だろうか? だが、それが何なのかは追々考えればいいことだ。


 俺は立ち上がろうとして失敗し、しかしファントムを振るった。

 仰向け状態からの、どう見ても様にならない剣筋。しかし、その威力は絶大だった。可視化されている剣の長さは、飽くまでも『ただ見える』だけであり、その見えない剣先は、見事にオウガの足先をすくい、バッサリと断ち斬った。


「ぐあああああああっ⁉」


 何が起きたのか、オウガには分かるまい。

 俺は何とか立ち上がり、再びファントムを正眼に構える。


「チイッ!」


 恐らくその場しのぎだろう、一度転倒したオウガの足先に、魔力で形成された新たな足が生まれる。だが、再生したわけではない。

 不格好にも、魔弾の準備を始めるオウガ。だが遅い。俺は半ばファントムに引っ張られるようにして、一気に接敵した。

 オウガから飛来した魔弾のことごとくを斬り捌き、俺はタンッ、と地を蹴って跳躍する。


「オウガ、覚悟おぉおッ!」


 そしてそのまま、オウガを頭頂部からばっさりと斬り裂いた。


「ば、かな……」


 オウガが後方に倒れ込み、一瞬で輝きを失って砕けていく。

 俺はその様子を、やはりファントムを正眼に構えたままで見届けた。


 するとファントムは、まるでひんやりとした泡が浮き上がるように、柄諸共俺の手から消え去った。


「翼!」


 誰かの声がする。でも『誰か』って誰だ?


「翼っ!」


 ああ、夏鈴か。俺はゆっくりと顔を上げ、夏鈴と目を合わせようとしたが、それは叶わなかった。魔力を完全に使い果たし、俺は再び、今度はうつ伏せに、ばったりと倒れ込んだ。

 俺の名前を連呼する夏鈴の声と、救護ヘリの回転翼の音が、耳にこびりつく。だがそれらも、ふわりと浮き上がるようにして俺の知覚外となった。

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