5-4. 探偵の本流、時代の奔流
実に一日ぶりとなる、我が城。
客が来た痕跡もなければ、仕事が溜まっているようにも見えない、実に殺風景な事務所だ。いつもと変わったことと言えば、机の上へ乱絶に置かれた弁当の空箱と、郵便受けへ投函されていた『夜逃げは許さん』と書かれた葉書くらいのもの。
「いや二つ目やばいでしょ」
大家のババアからの脅迫なんぞ、慣れたものだ。
いちいちビビっていては身が持たんよ。
「笑い飛ばすくらいの気概でいねえとな」
「よく見たら血文字だね」
「いちいちちちちちち、ビビビビビビってたら、身がもたたたた」
「膝が笑ってるけど」
病院とは、俺を縛り付ける窮屈で退屈な場所だとてっきり思っていたが、そうでもないのかもしれない。
俺の身を守ってくれる、最後の砦だったのかも。
「ま、まあそのことは置いといて」
「置いておけるほど軽いものじゃなくない?」
「置いといてッ!」
だが今はそれはいい。
さっさと本題――除霊の方に入るとしよう。
「葉金伊代の想い人だが、見つけてきたぞ」
「ええっ!? 嘘でしょ!?」
俺がそう伝えると、幽子はいつもより数オクターブ高い声を上げたかと思うと、あっけらかんとした表情を浮かべる。この名探偵の推理と仕事の速さに驚きを隠し切れない、そんなところか。
「昨日の今日で、どうやって……」
「まあ、それは当人の顔を見てもらえばわかるだろうよ」
疑念と困惑とをブレンドした顔をする幽子は放っておいて、俺は事務所の窓の方に向かって声をかける。それが聞こえたのか、それとも待機しているのに痺れを切らしたか――
「いったい何の用じゃ、幽霊が見える若造……。ワシも暇じゃあないんじゃぞ」
俺が呼び寄せたその人物は、窓をすり抜けて、ゆっくりと腰を曲げながら事務所へと入ってきた。
「……このお爺さんって」
「昨日、俺の病室で騒いでたジジババ幽霊のひとり」
ぷるぷると小刻みに震える体、髪の毛の一本すらない寂しい頭部、深く刻まれた幾つもの皺、口元から覗かせる隙間だらけの歯――その姿は、見紛うことなく老人のそれだ。
そしてその老人は、先日俺の病室で下品に笑っていた幽霊のひとりでもある。
「ちょ……ちょっと待って……」
「いいか、このジジイはな――」
「誰がジジイじゃ! まだピッチピチじゃ!」
「シッワシワの間違いだろ」
「なんだとお!?」
「待って言ってるでしょうが!」
俺と老人の言い争いを、幽子の声が静止する。
一体この探偵は何を言っているんだ、あの大和撫子お嬢さんの想い人がこんなしょぼくれた爺さんな訳ないだろう、身分差どころか歳の差気にしろよ――そう言いたげな様子に見える。
「なんだよ幽子」
「えっと……こ、この人が……?」
「
「ん? なんでワシの名前知っとるんだ?」
「つ、つまり、お姉さんが駆け落ちしようとした相手って……このお爺さんなの!?」
まあ、彼女の困惑はもっともかもしれない。
美しも儚い若い幽霊から聞かされた悲恋話、その相手がこの爺様だと言うのだ。
「半分正解で、半分不正解」
ただ幽子は、この悲恋の核心がわかっていない。
「どういうこと?」
「伊代さんが愛したのは、確かにこの爺さんに間違いない。だが、彼女が愛したのは、若いころの清久正だ」
「ううん……?」
「まだわかんねえのか。いいか幽子、固定概念に囚われるな。葉金伊代は十代か二十代の若い姿をしているが、彼女が幽霊であることを忘れるなよ」
しばらく悩んだあと、幽子はハッと気づく。
真実に気づいてもなお、信じられないといったような感じでおろおろと狼狽えてしまっている。
幽霊とは、現世に縛られた存在だ。
死の直後から、時の流れが止まった存在と言ってもよい。
成仏しない限り、亡くなった瞬間の姿を保ったまま、悠久の時を過ごす。
「葉金伊代が亡くなったのは今から八十年か、九十年か、そのくらい前。その当時に、二人は恋に落ちたんだ」
彼女もまた、その悠久の時に捕らわれていたのだ。
「じ、じゃあ伊代さんは……」
「その当時に亡くなったことになる。この爺さんに会うことを願いながら、百年近くの長い間、現世を彷徨い続けたわけだな」
約百年。
それは、どれほど気が遠くなる期間だったのだろうか。三十年と少ししか生きていない俺には、想像すらできない。
想い人に会いたい一心が、彼女を現世に縛り付けていた。しかし、およそ百年という時間は、あまりにも長い。時の流れに逆らず、想い人は歳を重ね、天寿を全うしてしまった。
「しょちょー、いつ気が付いたの? お姉さんが現代の人じゃないって」
「違和感があったのは、やっぱり彼女の話を聞いた時だな。いかにも『お嬢様』、いかにも『古風』って喋り方だったろ? そら名家のお嬢さんだってんだから、そういうこともあるのかなとは思ったが」
思い返せば、伊代は年齢の割にひどく堅苦しい言葉遣いをする人物だった。
『わたくしは、
『そんな……接吻など……』
『で、ですよね……。不躾でした、非礼をお詫びいたします……』
育ちがいいとここまで言葉遣いも違うのか、その時はまだそんなことを考えていたと思う。
「それに、このご時世に許嫁なんて……って疑念もあった。まあ、それほどまでの名家だったらあるのかもわからんが。疑念が確信に変わったのは、お前の調査結果を聞いた時だ」
「私の?」
収穫なしに思えた幽子の調査だが、実のところ『収穫がない』という『収穫』があった。これは何も哲学的な何かを言おうとしてるのではなくて、本当にそのままの意味である。
「街の幽霊連中、『葉金』って家を誰も知らなかったんだろ? 現代で、許嫁がいるほどの名家って言ったら、そらもう有名じゃなきゃおかしい。だがそれを、誰も知らない。今はもうその名家は存在しないってことなんだろう、と俺は確信した」
だとすれば、『葉金』はとうの昔に失くなった名家で、葉金伊代もとうの昔に亡くなったのだろう――そう推理をした。
「昔のことは、昔の人間に聞いた方がいい。お前が病院を去ったたあと、年寄り幽霊たちに軽く聞いてみた。まさかそこに本人がいたのは本当に偶然だけどな」
あの下品幽霊たちと再び話をするのは気が乗らなかったが、話してしまえば簡単だった。確かにその昔、『葉金』という名家がこの街にあったことも教えてくれたし、清久正がその病院にいることも判明できたのだ。
「なんじゃお前らさっきから……」
「正さん! どうして伊代さんを連れて逃げてあげなかったの! 伊代さん、そのまま死んじゃって……」
訳もわからず呼び出され、訳もわからず置いてけぼりにされた清久正が、不機嫌かつ不思議そうな顔をしている。そんな彼に、幽子は詰め寄りながら感情をぶつけてようとしていた。
「やめろ幽子」
「だってえ!」
俺は、静かに幽子を宥めて止める。
二人で逃げようだなんて言っておきながらそうしなかった彼を、幽子はどうしても問いただしたいのだろう。
「お前、彼女が昔のことを語りたがらなかったのを忘れたのか」
だが、それを聞くのは、それを責めるのは、酷なことだ。
言ってしまえば、時代が悪かったのだ。彼も彼女も、何も悪くない。
『もちろん聞いたよ。けど、なんだかすごい辛そうな顔をして、『それはできれば聞かないでください』だなんて言うから……』
事実がわかった今となれば、葉金伊代がふんわりとした事実だけを告げ、真実を語ることをしなかったのも頷ける。
「……それがどうかしたの?」
「名家のお嬢様が、いきなり田舎に飛ぶ……どうしてそんなことになったのか考えてみろ。彼女らが恋に落ちた時代、何があったのかを」
時代の奔流に飲み込まれた男女。
二人が愛に逃避できなかった理由を、幽子はこう語っていた。
『伊代さんは田舎の方へ行くことになっちゃって、正さんはもっとか遠いところへ行くことになって』
仮にも日本の中心部にあるこの街に拠点を構える名家が、どうして田舎へ発つことになったのか。その理由はやはり、葉金伊代が昔のことを多く語らなかった事実が、物語っている。
「疎開……」
時代の奔流が、戦が、彼女たちを引き裂いたのだ。
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