深見探偵事務所の幽々自適な除霊生活
稀山 美波
深見探偵事務所の幽々自適な除霊生活
1話 事務所の珍客、その名は幽子
1-1. 名探偵の朝は早い
名探偵の朝は早い。
まだ空が白んでいる早朝。仕事着であるスーツに身を包み、来たるべき戦いに備える。頭と体に喝を入れるべく、ひどく濁った苦いコーヒーを啜り、タール数の多い煙草に火を付け、ゆっくりと煙を肺に入れた。
俺なりの、儀式のようなものだ。
カフェインとニコチンとが体内を巡り、全身が覚醒していくのを感じる。思考はクリアになり、寝起きの体は軋みを上げつつも軽くなっていく。
儀式のお陰か、体のコンディションは悪くない。
これならば、今日のミッションは難なくこなせそうだ。流石は、名探偵・
特に今日のミッションは、絶対に失敗があってはならない。失敗、すなわち死――そんな過酷なものとなるだろう。
名探偵とは、謎を喰らい、生死の狭間で生きるアウトローな存在だ。常在戦場とも言える日常が、俺の背中をひりつかせ、生の実感を味わわせてくれる。
孤独に血肉を求め今日も荒野を行く、まさに俺は一匹狼。
今日も謎という血肉を求め、事件という荒野を駆け巡る。
嗚呼、名探偵・深見昇一はまさしく――
「あのー……」
昇る朝日を仰ぎ見ながらコーヒーを最後の一滴まで飲み干したところで、事務所の入口の方から女の声があった。その刹那、冴えに冴えた俺の頭の中にエマージェンシーコールが鳴り響く。
そんな馬鹿な、まだ朝の六時だぞ。まさか、こちらの動きを読んでいたというのか。裏をかいて行動したこちらの、さらに裏をかいてくるとは。この名探偵を出し抜くとは、敵も中々のやり手じゃないか。
だが、こちらも名探偵。
不測の事態の時ほど、クールに、クレバーに対処しなければ。
「ひいいいいい! すんません大家さん! あと一週間……、いや五日! いや三日でいいんで! 家賃は待ってください! 何卒……何卒ォ!」
至って冷静に、女の足元へと飛び込みながら、自分でも驚くほど綺麗な土下座を決めた。
薄くなったズボンが床との摩擦で破れ、膝小僧が焼けて痛い?
勢いよく頭を床に打ち付けたせいで、額が割れそう?
三十路を超えて土下座なんかして、心が挫けそう?
笑わせる。
名探偵はいつだって冷静だ、頭の中ではきちんと物事を考えているさ。
「靴、靴でも舐めます。この卑しい豚めが大家様のお靴を綺麗にして差し上げます」
プライドで飯が食えるかよ、ってね。
「――むっ」
女の足元に舌を伸ばそうとしたその時だ。
名探偵の脳に電流が走り、とある推理が浮かび上がってきた。
「うわあ……」
この女、大家ではない。
どうして俺がそう思い至ったか。
その二つの理由をこれから説明しよう。
その一。
女の足が、明らかに大家のそれではないからだ。俺が今まさに舐めようとしている足は、白くきめ細やかで、それでいて若々しい肉感がある。大家のババアのそれとは似ても似つかない。
「……変なとこ来ちゃったかな」
その二。
頭上から聞こえてくる声は若く、年老いた大家のものとはかけ離れいる。顔を合わせれば必ず怒鳴りつけるしゃがれた声ではなく、やはり若々しく透き通った声だ。
以上の二点から、俺はこの女が大家ではないと判断した。いかがだろうか、我ながら完璧な推理であることと思う。
そこ、『最初から顔を確認しろよ』とか言わない。
だが、名探偵・深見昇一はそれだけでは終わらない。この女が大家でないことを見破った次は、女の正体を見破るとしなければ。
だがそれは簡単だ。
この探偵事務所を訪れる、大家以外の女。それはもう一つしかない。
「ああああ、すみません! お客様でしたか!」
事務所へ仕事を依頼しに来た、客だ。
しばらく長いことまともな客なんぞ来ていなかったので、すっかり失念していた。弘法も筆を誤る、名探偵が来客を取り違えることもあるだろう。
「ふっ、お見苦しいところをお見せしてしまいましたかな? それで今日のご依頼は? 飼い猫が逃げた? それとも夫の浮気調査? あるいは祖父の隠し財産――」
俺はゆっくりと立ち上がり、前髪をかき上げて、目一杯に低い声を出してみせる。前髪が退いてはっきりとした視界に、女の姿が飛び込んできた。
初めて対峙する、客の顔。
初めて眺める、女の姿。
久々にやってきた依頼に心躍らせていたが、客の風貌を見て、俺はひどく落胆し、大きく溜息をついた。
「……除霊か」
その姿を見て、まともな仕事の依頼でないことを、一瞬で察する。それを裏付けるかのように、女はゆっくり大きく、首を縦に振った。
また金にならない、除霊の仕事だ。
それにしても、この女はどこから俺の噂を嗅ぎつけてきたのだろう。
なんで除霊の依頼だと、すぐわかったかって?
そんなものは、名探偵が推理するまでもない。
女の姿を見れば、まともな依頼でないことは明らかだ。
「私、成仏したいの! でも未練が何か、それどころか自分の名前も、何で死んだかも、何もかもが思い出せなくて! 気づいたらお墓の前にいたの! お願い助けて探偵のおじさん!」
ふわふわと浮きながらそう叫ぶ、白装束の客人。
幽霊本人が直接事務所に訪れての除霊依頼は、初めてだった。
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