第7話 ジャポネ

 セーヌ川の真ん中にあるシテ島にパリ警視庁本部はある。


 オルフェーブル河岸36番地にあることから「36」トラント・シスと単に呼ばれている。

 東京の警視庁本庁舎が「桜田門」と呼ばれているのと同じだ。


そこからは一つブロックを挟んで、不幸な火事から復興工事が行われているノートルダム寺院が見える。

 

「ヴァンサン大変よ! 例の日本人、日本で見つかったそうです!」

 パリ警視庁の女性刑事、ニコラは警視庁本部の中にあるヴァンサン・バイヤールの部屋に入るなり大声をだした。


「えっ、そんなのあり得ないだろ! 指名手配掛けたからヤツは出国は出来ないはずだ!」

 ジャックの取り調べの際、自宅に侵入した可能性があると分かり、ジャックの自宅付近の監視カメラの映像をしらみ潰しに調べたところ、卯月きさらぎ優吾の姿がまんまと映っていた。


 ヴァンサンはすぐに優吾を指名手配した。


「それが……見つかったのは我々が追っている日本人ではなく……」


「どういうことだ? ニコラ」

 訳が分からないヴァンサンは訝しげな顔をしている。


「フランスに入国したのは偽のユウゴ・キサラギです」


「なんだって?」

 衝撃のあまりヴァンサンはしばらく言葉を失った。


「本物は、羽田空港の駐車場に放置されていたBEV電気自動車の盗難車の中から発見されたそうです」

 ニコラは噛み締めるように話した。


「死んでいたのか?」


「いいえ、辛うじて生きていました。殺す気はなかったようです。エアコンはかかりっぱなしでこの暑い最中熱中症で死亡するのは免れましたが、衰弱が激しいので現在は病院で手当てを受けているとのことです」

 電気自動車をわざわざ盗んだのはそういう事か、とヴァンサンは思いつつも、


「こりゃ、面倒なことになって来たな。まずはやっこさんを釈放しないと」

 

「分かりました。グノー氏の釈放の手続きを進めます。レポートはお願いしますよ」

 ニコラは自分にその役割が回ってくるのを予防線を張って防いだ。


「ちぇっ、感が良いでやんの」

 ドアを開けて出て行くニコラを見送りながら舌打ちするヴァンサン。


「さて、偽物の行方を調べるには、まずはご本人にしねえとな」

 そう言ってみたものの、ICPO国際刑事警察機構が直接日本で捜査することはない。ICPOから指定されている警察組織である日本の警察が委託を受けて捜査をするだけだ。


「この事件ヤマだけは、オレがなんとかしねえと」

 そう言って、ヴァンサンは席を立って警視正の部屋へ行き、ドアをノックした。


「ヴァンサンです」


「入れ」

 警視正のドミニク・ガスケは不機嫌そうに答えた。

 ヴァンサンはドアを開けて中をそっと覗いた。


「何をやっている。入れ」

 ドミニクは手招きをしている。


「ボス、相談がありましてね」

 申し訳なさそうにヴァンサンは切り出した。


「だめだ」

 何も聞かないうちからドミニクは拒否の意を表した。


「ちょ、ちょっとまってくださいよ! まだ何も話していないじゃないですか!」

 抗議するヴァンサン。


「お前の相談なんてロクなもんじゃない。しかし一応聞くだけ聞いてやろう。パワハラだなんだと騒ぎ立てたれちゃこっちも困るからな」


「あ、ありがとうございます。実はですね」


「偽物の日本人の件か?」


「そうなんですが……」


「お前を日本に行かせることなんて全く考えていないぞ」


(ボスはこういう所が本当に感が鋭いな)

 そう考えたヴァンサンは、


「い、いやぁボス。そうじゃなくてですね。ヴァカンスの時期をちょっと前倒しさせてもらおうと思って」


「なんだ。そんなことか……って騙されるか! このっ!」

 ヴァンサンは感の良すぎる上司を呪った。

 溜息が一つ出る。


「まあいい。オレはお前の『休暇取得日の変更』についてだけ許可をだしてやる」

 ニヤリとしてドミニクは、


「後は知らんぞ」

 と言ったっきりヴァンサンから顔を背けて書類を見始めた。


「ありがとうございます! ボス!」

 ヴァンサンがそう言うと、


「出て行け」

 とばかりに追い払うジェスチャーをドミニクにされた。


 ドミニクの部屋を出たヴァンサンは自室に戻り、妻のペリーヌに電話を掛けた。


「あらヴァンサン、どうしたの仕事中に珍しいわね?」

 ペリーヌは自宅のスタジオでホットヨガの最中だった。

 リラックスしているからか、とても気分は良かった。


「ああ、ペリーヌ。休暇を来週からにしてもらったんだ」


「あら、珍しい。あなたが休暇の事を楽しみにしているなんて」

 ペリーヌの声は急にトーンが2オクターブほど下がった。


「行きたいところがあってだな」

 と、言いかけたところで電話はプツっと切れた。


 ヴァンサンは慌てて掛けなおす。

「お、おいペリーヌ。話は最後まで聞けよ」


 ペリーヌの声は明らかに怒っていた。

「あなたは何でそんな勝手に休暇も行先も決めてしまうのよ! どうせまた『捜査』なんでしょう!」

 図星である。

 家族と休暇を愛するフランス人にあって、ワーカホリックなヴァンサンはかなり特異な存在だ。


 もうヴァンサンに連れ添って20年も経つペリーヌは、ヴァンサンの仕事に振り回されるのは嫌だったが、それでも離婚を考えた事など一度もなかった。


 諦めたかのようにペリーヌは、


「それで、何処なのよ。行き先は?」

 と聞くと、ヴァンサンは言いにくそうに、


「それがその……日本なんだ」

 そういうと、暫し沈黙の後、


「何ですってぇ!!」

 とペリーヌの大きな声が聞こえてきた。


「あ、あ、あのな、どうしても日本に行かないといけないんだ、きっとペリーヌはガルダ湖とかが良いんだよな?」

 ヴァンサンは取りなすようにそう言った。


 ペリーヌがヴァンサンをずっと愛している理由は、このようにヴァンサンが仕事を愛するよりもずっとペリーヌを愛してくれている事が分かっているからだ。


「あなた、そうじゃないわ。日本でしょ? 最高じゃない!」

 呆気にとられるヴァンサン。


「それじゃ、いいのか?」


「当たり前よ! あなた」


「そ、そうか、マシェリー*(愛しい人)、それじゃまた後で」



 ヴァンサンは電話を切り、ほっと胸を撫で下ろした。


「ペリーヌは何とかなったが…これからが大変だぞ」

 と独り言ちた。


「日本の情報でも仕入れておくか」

 そう言ってPCのブラウザを立ち上げ、フランス版Yahoo!にアクセスした。

 

 トップページのヘッドラインには、


「ミュンヘナーFCのアタッカーが銃撃で死亡」

 と出ていた。


「何処も彼処も物騒な世の中だな」

 そう呟くと検索窓に「Japon」と入力してトップページを離れた。

 



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