第14話 警視庁外事第三課第二係

  北小路誠也は警視庁外事第三課第二係の係長だ。

 

 今年で26歳、キャリア組で警視への昇進の試験を控えた警部である。 

 

 父親はかつて外務省の役人で、東京大学を卒業したのち入省、フランス語に堪能なことから、コートジボワールを皮切りにフランス語圏の大使館を渡り歩いてきた。


 フランスでの赴任期間が最も長く、そこで誠也は生まれた。

 日本に帰国したのは父親が外務省審議官でキャリアが止まり、退職して民間企業に50歳ちょうどで再就職――いわゆる天下りをしたからである。


 誠也が警察官になろうと思ったきっかけは、10歳の頃、あるトラブルに巻き込まれフランス人の刑事に助けられたことだった。


 ルーヴル美術館からセーヌ川を挟んで斜向かいにあるオルセー美術館。

 誠也がイルド=フランスにある日本人学校での授業が終わると、ブルボン宮殿近くでスクールバスを降りて直行するのが日課になっていた。

 誠也はオルセーの中で、19世紀を中心とした所蔵作品一つ一つを丹念に調べたり、時にはスケッチをしたりと絵画や彫刻に囲まれる事が好きだったのだ。

 

 そもそも1900年に開催されたパリ万博への来場客のために建設された鉄道駅がオルセー美術館の生い立ちだ。蒲鉾状の天井を生かした館内は開放的で趣がある。


 誠也にとってはここが自宅の次に好きな場所であった。誠也は母親に年間パスポートを買ってもらい、ほぼ毎日ここで過ごしていたのだ。


 誠也が事件に巻き込まれたのは冬の寒い日だった。


 いつものようにオルセー美術館でスケッチをして、スケッチがあともう少しで終わると言うところで閉館時間となった。


 誠也はいつも通り少し遅れても退館できる、そうたかを括っていた。


 しかし、この日に限りいつも最後に見回りをして誠也を優しい表情でやんわりと退館を促すジャン=ルイという初老の警備員の当直日ではなかったのが災いした。


「どうせジャン=ルイがまた来てくれる。それまで描いていよう」と、ゴーギャンの「タヒチの女」を描いていた。


 少し死角になる場所だったためか、その日の見回りを行った若い警備員、アランには気が付かれることがなかった。


 突然照明が落ちた。


 点っているのは「Sortie出口」の緑の表示のみだ。


 あんなに好きだった印象派の絵画たちは、闇の中で誠也に牙を剥いた。


 もちろん錯覚である。不安感は心の中で増幅し、ありもしない像を頭の中に結ぶ。


 そう。10歳の誠也には暗闇での絵画や彫刻は恐怖でしかなかったのだ。


 パニックになった誠也は館内を出鱈目に走り回った。

 

 そして、非常ベルという非常ベルを鳴らして回った。


 やがてパリ市警がやってきて、誠也は無事保護されたのだが、その時に対応した若い刑事は、誠也を怒るどころか、


「スケッチを見せてごらん。ああ、凄いじゃないか。君はきっとエドアール・マネのような画家になれるよ」

 そう言って優しく誠也の頬を撫でてくれた。


「そうだな、次からはジャン=ルイだけじゃなく、アランにも声をかけておくんだぞ」

 お小言はそれだけだった。若い刑事はヴィンセントと名乗った。


「ゴッホみたいな名前」

 誠也はヴィンセントが好きになった。


 しかし、家に帰った誠也を待ち受けていたのは、父孝四郎の仕打ちだった。


 騒ぎを起こした誠也を赦さなかったのだ。


 オルセーの年間パスは取り上げられて、絵を描くことも禁じられた。


「僕はもうマネにはなれないんだ」

 ある日再会したヴィンセントに誠也はそう告げた。


「そんな……君のお父さんは何かを見失っているようだね」

 ヴィンセントはそう悲しそうに言ったが誠也は、


「良いんだ。お父さんは外交官としての立場があるんだと思う。恥をかかせたのはぼくなんだ。だから僕は画家は諦めてヴィンセントのような刑事になるよ。きっとだ」

 誠也の顔には実に一点の曇りもなかった。


 ヴィンセントは誠也に微笑みを返した。

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