第5話 八百長
ケマルは4-2-3-1のワントップで先発した。
BVミュンヘンのBチームは育成のメソッドが確立されており、先発は若手のかなりの実力者ばかりの布陣だ。
ミュンヘナーFCボールでキックオフされた途端、BVミュンヘンの前線素早いチェックで強いプレッシャーを掛けて来た。
堪らずボールを持っていたミッドフィルダーは最後列までバックパスし、
センターバックが上がり目の左サイドバックに速いグラウンダーのパスをすると、パスを受けた左サイドバックはそのままセンターラインまで持って上がった。
その刹那ディフェンスに来た右のミッドフィルダーのプレッシャーに負けて一旦
こうした展開が10分間も続き、なかなかお互いにアタッキングサード*(ピッチを3分割した時に、相手ゴールに近い三分の一のエリア)までボールを運べない。
今日のBVミュンヘンは守備には一定の強度と規律があり、なるべく高いポジションでボールを奪取しゴールに繋げる「ショートカウンター」を狙っているのが明白だった。
ケマルは内心、
(このままシュートチャンスが来なきゃいいのにな)
と思っていた。
何故なら、オットーからの指示は「ノーゴールで終わる」または「レッドカードで退場」するのどちらかだったからだ。
紛れもなくこれは八百長だ。
世界中のブックメーカーはこんな4部相当のプレシーズンマッチまで賭けの対象にしている。
相手のあることなので、勝ち負けで八百長をすることはなかなか難しい。
しかし選手のゴール数、レッドカードやイエローカードまで賭けの対象にしているブックメーカーも少なからず有る。
それ故にこの目立たないリーグのプレシーズンマッチで選手に八百長を仕込む
八百長に手を染めれば永久追放など不名誉な結果に繋がるリスクが高すぎるため、
しかし、下部組織の若い選手、取り分け貧しい家庭で育ったケマルのような選手には声がかかりやすい。
ケマルは既に三度八百長に応じていた。
最初はもちろん断った。
しかし、応じざるを得ない事態が起こったのである。
半年前、ケマルの父が建設現場で事故に遭い、全治6か月の重傷を負ったため働くことが適わなくなった。貧しいケマルの家族は医療費は免除されるが、ドイツの生活保護制度は生温いものではなく、否応なしにケマルの家族は厳しい生活を余儀なくされた。
そこに声をかけてきたのがオットー・モルシュだった。本名かどうかも怪しいが、東欧の訛りを持つこの男は「23」と単に呼ばれる組織の末端構成員らしい。
オットーは、
「オレのボスのちょっとしたお願いを聞いてくれさえすれば、お前の家族を毎日腹いっぱいに食わせてやる」
と、ケマルに持ち掛けた。
ケマルはサッカーに没頭したかった。さもなければ、ケマルは中央駅で男娼として立たねばならなかったかもしれない。
「いくらくれるんだ?」
ケマルのオットーへのこの質問が、ケマルの人生を決めてしまった。
ケマルはBチームへの昇格と共に給料をもらえる立場になった。
契約は年2万8千ユーロだ。
しかし一度八百長に手を染めてしまったケマルにはそれから抜ける手立てがなかった。重要な試合ほど八百長の話が持ち掛けられる。
その度にケマルは容易く決められるシュートを吹かして外し、PKのチャンスが巡ってきた時も大袈裟に外した。
その度にヴィンフリードからは強く叱責を受けたが、八百長の掛かっていない試合ではその失敗を十分に挽回する活躍を見せたのでヴィンフリートは能力はあるが波がある選手とみなしていたのであった。
公式戦の試合への出場給も給料のうちだったので、レッドカードはシーズン中もらわないようにしていたが、今日はプレシーズンマッチだ。
自分の能力が疑われる様な下手なプレーはしたくない。
レッドカードで退場しても8月に開幕する新しいシーズンには影響しない。
「レッドカードをもらう」
と、ケマルは心に決めていた。
ケマルはメインスタンドの最前列に陣取ったオットーの合図を待っていた。
ブックメーカーは、試合が始まっても
立ち上がったオットーはサングラスを外した。「お客さん」が喜ぶようなオッズが出たのであろう。
――合図だ――
(これで最後だ。うまくやらなきゃ)
心の中でケマルはそう呟いた。
しかしオットーは、
「この仕事に『最後』なんてものはねえさ。絞り尽くされるまで絞られる。覚悟するんだな。ケマル」
と、ニヤけた顔で呟いた。
一斉に観客が沸いた。オットーは顔を上げた。
ワントップのケマルにパスが渡ったのだ。ボランチからの絶妙なスルーパスだ。
いつもなら判断が早く、球離れが良いケマルだが、のらりくらりとドリブルをして相手ディフェンダー二人に囲まれた。
そしてケマルはワザと足を削られに行って、相手共々ピッチに倒れ込むと、急いで立ち上がり、腹いせとばかりに審判の目の前で相手を踏みつけたのだ。
観客席からは一斉にブーイングが起こった。
「ケマル! この野蛮人が!」
ドイツでは東欧やトルコからの移民を排斥しようとする一定の層がいる。
このヤジには眉を顰める観客も多く、またこのヤジを発した観客に非難の言葉を浴びせる他の観客も現れ一部のエリアは騒然とした。
そして、主審は胸ポケットに手を入れてレッドカードを差し出した。
「ケマル! このくそったれが!」
ヘッドコーチのヴィンフリートは大声でそう吐き捨てた。
(これでオレは自由だ)
ケマルは内心そう思いながらピッチの外に出て、ベンチに戻った。
「ケマル、今日の事はオレは絶対に擁護しない。覚悟しておくんだな!」
ヴィンフリートは冷たくそう言い放った。
「ヴィンフリート、オレはどうかしていたんだ。もうやらないよ」
「もうやらないだと? あんな事をしでかす奴をオレが推薦して上にあげるなんてことは絶対にない」
呆然とするケマル。
「頭を冷やしてこい。いいな」
そうヴィンフリートに言われたケマルはトイレに向かった。
トイレの洗面台で頭から水を被って涙を流していたケマルに、トイレの入り口のドアが開いた音が聞こえた。
「ケマル。よくやったな」
オットーだった。
「何がよくやっただ! おかげでオレのトップへの昇格はなくなったんだぞ!」
オットーはケマルにそうまくし立てられたが、
「まあ、これでまた頼みやすくなったよ。頼りにしてるぜ。ケマル」
そう言ってさっき受け取りを拒否された200ユーロを床に捨てるように投げ、静かにドアを開けて出て行った。
ケマルはその場でうずくまり、大声を上げて泣いた。
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