第4話 裏社会
「そんなもの、オレは身に覚えがねえ!」
ジャックは自宅捜索で見つかったといわれる二通の書類を見せられたが、何故そんなことになったのか分からなかった。
「グノーさん。正直に話してくれ。あんたはオレのヒーローだったんだぜ? あんたの名前が入ったゲームシャツだってリールのオレの実家にはいまだに大切に飾られているんだ」
ヴァンサンは懇願するような顔をしてジャックに自白を迫った。
「正直に話している。オレは何も知らねえ」
ジャックは進退窮まったが、身に覚えがないものを認めるわけにはいかなかった。
「じゃあ聞くが、どうやって身に覚えのない書類があんたの家の中にあるんだ?」
ヴァンサンにそう言われてジャックは今頃気が付いた。
「旦那、オレの車を捜索したときに車のキーはどうした?」
「車のキーは抜かれていたと捜査員からは聞いてるが、それがどうした?」
「オレは車からキーを抜いちゃいねえよ。オレの身体検査の時に所持品にもなかっただろう?」
ヴァンサンは少し苛ついた顔をして、
「今はあんたのポンコツ車の話なんてしてねえよ」
と言った。
「車のキーはキーリングにアパートの鍵が一緒についていたのさ。オレの前から消えたユウゴは、自分の荷物を爆発しそうな車にわざわざ取りに戻って、キーを抜いたたにちがいねえ」
ジャックはそう告げると、
「頼む。オレは本当に何も知らねえんだ。ユウゴを、いや、あの日本人を見つけ出してくれ!」
ヴァンサンは一理あると思ったのか、証拠品を持ってきた女性刑事、ニコラに、
「ニコラ、オステルリッツ駅、それからグノー氏のアパルトマン周辺の監視カメラにアクセスしてKELMEの青いジャージを着た東洋人が映っているかどうかチェックさせてくれ」
と依頼した。
ニコラもすぐさま状況を把握したようで、
「
と短く返答してドアを開けて出て行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パリでのタンクローリー爆発事件の2日後、ミュンヘン市の南部にあるグリュンヴァルター・シュタディオンでは、ドイツ連邦リーグ3部の更に下の地域リーグである
世界に名を馳せているビッグクラブ、「BVミュンヘン」の下部組織であるBVミュンヘン IIと、連邦リーグの2部どころか3部まで落ちぶれたもう一つのミュンヘンをフランチャイズとする「ミュンヘナーFC」の下部組織、ミュンヘナーFC IIとの試合だ。
ミュンヘナーFCはかつてはポカールカップ(日本における天皇杯のような、サッカー協会に所属しているクラブチームが参加できるオープン大会)を制したこともある古豪だが、もう一部リーグから陥落して半世紀近くが経っている。
もはや地域リーグでしか見れないBチーム同士の「ミュンヘン・ダービー」はミュンヘンっ子には意外な人気がある。
リザーブチームと言ってもオフィシャルなゲームシャツはトップチームと同じで、オフィシャルスポンサーのロゴもしっかり入っている。
今日はミュンヘナーFC IIのホームゲームのため、ミュンヘナーFCはバイエルン州の旗にあしらわれているスカイブルーのシャツに白いパンツ、BVミュンヘン IIはアウェイの赤と紺の縦ストライプゲームシャツに赤いパンツでの対戦だ。
ミュンヘナーFCの17歳のアタッカー、ケマル・ケペラーは、この試合に先発を言い渡された。
両親はトルコからの移民で、このドイツ一裕福な街であるミュンヘンのなかで特に治安の悪い中央駅付近にあるトルコ人街で生まれ育った。
同じトルコ系のメスト・エジル(*元ドイツ代表のスーパースター)に憧れ、5歳からボールを蹴り始めた。
ミュンヘナーFCのジュニアユースに入ると頭角を現し、順調にBチームに昨シーズン昇格した、将来を嘱望されているアタッカーなのだ。
しかし、彼には影が付きまとっていた。
試合前、ケマルは一人の男に携帯で呼び出され、グリュンヴァルター・シュタディオンのトイレで接触した。
「ケマル。わかっているな? 今日はやる日だ」
男はポケットから200ユーロを無造作に取り出し、ケマルの胸に押し付けた。
「オットー、話があるんだ」
ケマルは少し震えながら切り出した。
「なんだ? 怖気づいたか」
ケマルがオットーと呼ぶ中年男は、明らかに堅気の人間には見えない。
腕に入ったタトゥはともかく、オットーが醸し出す雰囲気は裏社会の人間のそれそのものである。
「ああ、チームも僕の事を認めてくれている。うまくいけば、8月から始まるリーガ3にデビューできるかもしれないんだよ」
トップチームに昇格できそうだというケマルにオットーは、
「ほお、それはよかったな。わかった。とりあえず今日はやれ。お前昨日電話では『やる』って言っていただろう? もう『鏑矢は放たれた*(ドイツ語の賽は投げられたにあたる諺)』んだ。もしお前が今日やらなければ……」
「わかった、わかったよ。今日で最後にしてくれ。金は要らない」
ケマルはオットーの言葉を遮るように自分の意思を伝えた。
「最後、ね。ああ、いいだろう」
オットーはそう言うと、人の気配を感じて人払いをするジェスチャーでケマルを遠ざけた。
ピッチでは、既に練習が始まっていた。
ケマルはヘッドコーチのヴィンフリートに、
「ケマル、どこ行ってたんだ? 今日の身体の調子はどうだ?」
と訊いた。
ケマルは、
「ああ、調子はわるくないよ、ヴィンフリート」
と応えた。
ヴィンフリートはこの才能あふれる17歳をトップチームに昇格させるつもりでいた。
トップチームは今年2部に昇格が厳命されている。
オフシーズンはコロナウィルスの影響で移籍市場があまり活発ではなかったため、良い補強ができなかったというチームの事情もあるが、ケマルの能力は既にBチームの枠を超えていると思ったからだ。
「ケマル、今日はBVミュンヘンから2点は獲れよ」
ヴィンフリートはそう発破をかけた。
「2点でいいのかい?」
ケマルは軽口で返した。
ヴィンフリートは目を細めた。本当にこいつならハットトリックをやっちまうんじゃないか? そう思えるほどケマルは充実している。
両チームのアップの時間は終わった頃、スタンドを見ると観客でかなり埋まっていた。ドイツのサッカー好きは試合前の練習から見ることが多いようだ。
午後6時。キックオフ。
日中の暑さは鳴りを潜め、グリュンヴァルター・シュタディオンには爽やかな風が吹き始めた。
そして運命の主審の笛は、高らかにピッチに響き渡った。
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