第6話 報い

 ミュンヘン交通局186系統のバスをリュメリン通りで降りると、付近の住宅地の一角にイザール川に続く小径の入り口があり、その先には川と貯水池を隔てる堰がある。

 そこを通ってい行くと、先にミュンヘンっ子に愛されている広大なエングリッシャーガルテン英国庭園に続いている。

 

 堰にはクリーム色の建物が建っており、まるでフィレンツェのポンテヴェキオを彷彿とさせる。

 

 ただ、残念な事にこの建物には、大きな落書きがされている。

 ミュンヘンっ子が心を痛めている事の一つだ。

 

 ケマルはあの試合の三日後、オットーに電話で連絡を取り、この堰の真ん中に来るように呼び出した。


 ケマルはヘッドコーチのヴィンフリートより謹慎処分を言い渡されており、練習場にも顔を出していない。

 

 オットーは指定された午後8時に顔を出した。


 口には煙草をくわえて吹かしながら歩いてくるのがケマルには見えた。この時間帯はまだ明るいものの、時折ジョギングをする人が通るが人気ひとけは少ない。


「どうしたケマル。今謹慎中だってな」

 脳天気にその原因を作った張本人に言われると流石に心が折れそうになるが、ケマルは強い決心を持ってこの場にやって来た。


「ああ、オレがレッドカードをもらって、さぞアンタもアンタのボスも嬉しいんだろうね」

 オットーは少し苛ついたが、


「ああ、これも立派なビジネスだよ。お前はよくやってくれた。ボスは今回の件でロシア人の金持ちから相当儲けさせてもらったようだぜ?」

 ケマルは唾を足元に吐いた。


「それで200ユーロかよ。こっちはトップ昇格を棒に振ったばかりじゃなく謹慎だ」

 

「よく言うよ。お前が『いくらくれるんだ?』って聞いてきたから先に4万ユーロを渡してやっただろう? それでお前さんの家族は助かったんじゃねえのか?」

 薄ら笑いで、着手金として渡した4万ユーロの事を蒸し返したオットー。


「それでアンタらは一体いくら儲けたんだ? 10万か? 50万か?」

 拳を強く握りしめて言うケマル。


「さあな。俺みたいな末端が知る由もない。けど、それがオレたちとお前の『約束』だしな。謹慎はいつ解けるんだ? 今度は謹慎を食わないように上手くやるんだぞ」


「オットー、話がある。もうオレはアンタたちの指図は受けない」

 オットーはびっくりした顔をした。


「おいおい、4万ユーロ分は働いてもらわねえとな。滅多なことを考えるんじゃねえぞ、ケマル」

 オットーは吸っていた煙草を地面に投げ捨てた。


「もう随分と稼がせてやっただろうが!」

 気色ばむケマル。


「そうカッカするな。おい、ちょっと見てみろよ」

 そう言ってオットーは堰に設けられている魚が遡上できるように作ったスロープを指さすと、何匹かの魚が堰を超えようとしてスロープを上がろうとしていた。


 もがくように必死に尾びれを左右に振って水のスロープを上がろうとしている魚たち。


「まるでお前みたいだな」

 オットーは魚をケマルに例えた。


「もがいて、もがいて、それで何とか上がっても、結局そこにはダムがあるだけだ。お前も同じさ。もがいてトップチームに上がっても、オレたちからは逃れられないのさ」

 絶望とはこのことを言うのであろう。


 サッカーの才能にあふれる17歳は、チームによって見いだされそして羽ばたこうとしている。それなのにまるで地獄から無数の手が伸びてきて、ケマルが飛び立てないように脚を掴まれているようだ。


「何とか、ならないのか」

 ケマルは懇願するように訊いた。


「一度この道に入ったら元には戻れないんだぜ。お前はを選択したんだ」

 オットーはそう吐き捨ててケマルから背を向けた。


 それを見たケマルは、覚悟を決めた。


「もう、オレはだめなんだな」


 ケマルはいきなり尻のポケットに忍ばせていたバタフライナイフを取り出し、右手に持って大声を出しながらオットーに切りつけた。


「ああああああああ!」

 奇声に気が付いたオットーは振り返った。


 ケマルのナイフはオットーの肥満した下腹部に刺さり、オットーは悲鳴を上げながら倒れ込んだ。


「な、何をしやがる! こ、このクソガキが!」

 そう言うや否や、オットーは内ポケットに忍ばせてあったS&WスミスアンドウエッソンM&P9シールドを取り出し、4発ケマルに向かって連射した。


「パン、パン、パン、パン」

 と乾いた音が周囲に響き渡り、貯水池で休んでいた水鳥がたちが一斉に飛び立った。


 このハンドガンは小さく隠匿・携行に便利で、いざという時は安全装置がないため直ぐに撃てるという利点があり、オットーのような人間には人気がある。


 ケマルは4発の銃弾を受けて即死した。

 

「くっそう、なんてことしやがるんだ。血が、血が止まらねえ」

 そう言いながらもオットーは立ち上がり、傷口を抑えながら現場を立ち去った。


 スマートフォンで電話を掛けるオットー。

 

「マイヤー、オットーだ。『飼い犬』に噛まれたんで始末した」


 電話の先のマイヤーと呼ばれた男は、オットーが発した言葉で状況を理解したようだ。


ブルーダー兄弟、落ち着け。お前の居場所はGPSで分かる。すぐに助けを呼んでやるからどこかに身を隠すんだ」


「わ、分かった。傷が深そうだ。結構失血するかもしれねえ。頼む、なるべく早く助けをよこしてくれ」

 オットーがケマルから受けて刺し傷は内臓の一部を損傷するほどに深く、失血も進んでいるためかかなり意識が混濁してきた。


 オットーは、東屋を見つけて置かれているベンチに横たわった。

 肩で息をするほど呼吸が困難になってきた。


「畜生、あのガキ。最後は虫けらのように死んでいったぜ。ザマあみろ! ゴホッ! ゴホッ!」

 乾いた咳を二つ。傷に響いて呻き声を上げた。


 25分は待っただろうか。それでも助けはなかなか来ない。

 

 オットーは全身に悪寒を感じてガタガタと震えながらスマートフォンのリダイヤルを押した。


「マイヤー。助けはくるんだろうな」


 オットーには、


「待たせたな」

 と言ったマイヤーの声が電話のスピーカーだけでなく生の声をほぼ同時に聞こえてきたのだった。


「大丈夫か、ブルーダー兄弟

 と言って、マイヤーはサプレッサー消音器のついたFNX-45タクティカルハンドガンでオットーの眉間を2発撃ち抜いた。


 まだ完全には陽が落ち切っていないが、ほとんど何をしていたか仮に周りに人がいても分からなかっただろう。


「八百長をするにも、信頼関係がなければ長続きしないんだぜ、ブルーダー兄弟。みすみす金の卵を潰しやがって。この能無しが」

 と、既に事切れたオットーに言った。


「遅いぞ!」

 マイヤーはようやく来た手下の若手二人に、オットーをしろ。と命じて立ち去った。

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