第34話 アブドル・ハビブ

 アドルフ・ヒトラー由来のスタジアムがドイツ国内に点在しているが、ここメルセデス・ベンツ・アレーナも、「アドルフ・ヒトラー・カンプバーン」として1933年に落成した元陸上競技場を2011年にサッカー専用スタジアムに改装したものだ。

 負の遺産も有効活用する、いかにもドイツらしいやり方だ。


 ここを本拠地とするシュツットガルトSVPは2016年と2020年シーズンに2部降格の憂き目に遭い、その度に1年で一部に復帰するも目覚ましい活躍はできていない、準エレベーターチームというポジションに甘んじている。


 8月10日の開幕戦の相手としてここメルセデス・ベンツ・アレーナに乗り込んできたのが智将、グルムバッハ率いる西ベルリンを拠点とするシャルロッテン・ベルリナーだった。

 

 午後2時30分きっかりに、主審の笛が鳴った。

 

 2トップの一人が、カン・ソングー。

 U-23韓国代表の若干二十歳のエースストライカーである。


 裏の顔は八百長に手を染める奸賊である。

 否、裏社会のシンジケートである「23」のスカウト、マチェックに心のスキを上手く使われ、身を落とした被害者でもある。


 キックオフの笛に遡ること二時間前、黒いセカンドジャージに身を包んだソングーは、メルセデス・ベンツ・アレーナのメインスタンドの最前列にある腰高くらいのフェンスにへばり付くマチェックからジェスチュアを通じて今日の「指令」を受け取っていた。

 横を向いてやり取りがばれないように、横目でちらちらとマチェックの動作を見て理解したのは、前回と同じ指示である事であった。


「また『点を取れ』だと? また相手チームに仕込みをしやがるようなマネをしやがって。バカにしているのか?」


 実際には、相手チームであるシュツットガルトには仕込みはしていない。


 組織は、ソングーの覚醒に期待しながらも、一方ではベット掛けではソングーとは関係ない分野で今夜の客、とあるベイルートの富豪から多くの掛金を引き出していた。


 ウンターシェフ上級支配人であるジェルジンスキは、ベルリンの「23」のアジトで携帯電話に送られてくるテキストメールでベットの行方を追っていた。


 試合が始まると、おもむろに電話を誰かにかけた。


「啓吾か?」


「はい、ボス」

 啓吾は突然の電話に特に驚きもしなかったが、ジェルジンスキの声を聞いて少しナーバスになった。

 

「マチェックは近くにいるのか?」


「いえ、奴はメインスタンドの中段位のところで様子を見ています」


「仕込みはなし、だろうな?」


「ええ、それは抜かりなく」

 

「また掛ける」

 ジェルジンスキはそう言うと一方的に電話を切った。


(今回はノミ行為か……)

 今回ベイルートから来た富豪から金を引き出して半分は自分たちのノミ行為に、半分は、ソングーのゴールに組織はベットしていたのだ。

 富豪には『外れても25%ペイバック」のような働きかけをしているらしい。

 

 最初から八百長を提案するのは難しいからだ。

 組織の動きを、ドイツの公安当局に誰がタレ込むかわからないからだ。


 こんな非合法な世界にも信頼関係は必要なのだ。


 ソングーが点を決めようが決めまいが、組織には結局金が入る。

 八百長のシンジケートにはモラルなどない。


 試合が始まって14分、シャルロッテンベルリナーの右サイドバックのミュラーがミドルサードとアタッキングサードの境目あたりでアーリークロスを放った。

 直線的に飛んで行くボールの行方を開幕戦に集まった観客たちは見ていた。


 ボールの落下点、ファーポスト3m付近にはカン・ソングーが入っていた。


 シュツットガルトのセンターバック、シュタインベルガーがソングーと競り合うようにジャンプするも、頭ひとつ高く飛んだソングーの頭にクロスボールはヒットして、ゴールキーパーの飛んだ方向とは逆のサイドネットを揺らした。


 先制だ。


「おー、やったな」

 ほくそ笑むジェルジンスキ。


『お客さん』にはこれで25%返金だが、それをかなり上回る儲けが出たわけだ。 


「啓吾、マチェックには後は適当にやっておけと伝えろ。前回金を使って仕込みをしていた甲斐があったというものだな。また仕込んであると思い込んでたんだろう」

 

 ジェルジンスキの声からは高揚感が伝わってきた。

 自縄自縛ともいえる賭けに勝ったからかもしれない。

  

 問題はベイルートから来た富豪をどうやって満足させて帰すかだ。


「さてと、アフターケアをするかな」

 冷静に戻ったジェルジンスキはこの試合の仕上げにかかることにした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「君の話では、今夜は儲けさせてくれるってことだったが、私の聞き間違いだったのかね?」

 ハーフタイムにリージェント・ベルリンのスイートルームに現れたジェルジンスキにアブデル・ハビブは淡々と、それでいて怒気を含みながら言った。


「大変申し訳ありません。何せ、我々も非合法組織なもので、いつ当局に摘発されるかわかりませんからアブデル、あなたを簡単に信用したわけではないんですよ」

 

「なるほど。そして私は信用に足る人物だったかね?」


 アブデル・ハビブ。65歳。

 レバノンの下流家庭に育ち、家族でフランスへ渡ったのが12歳の時だった。


 フランスは移民であっても公立であれば教育費は無償であり、頭脳明晰であった彼は、グランゼコールまで進学したが、学友のほとんどが進む官僚の道には進まず、造船会社であるNDF、ネヴィエ・ド・フランセの技術者として雇われた。


 NDFで頭角をめきめきと現し、南米、北米の社長を若くから歴任。飛躍的な業績を上げた。


 その手腕を買われ赴任した日本では、中国や韓国の造船業に押され財務破綻寸前の旧財閥系の造船会社を吸収してV字回復させたことから爆発的な人気を呼ぶ辣腕経営者として名を馳せた。

 彼にまつわる書籍は飛ぶように売れ、テレビにも引っ張りだこの日々が続いた。

 しかし、経営の舵を取り始めてから15年間の間に会社を私物化して私腹を肥やし始め、ついには東京地検特捜部に逮捕、間もなく10億という巨額の保釈金を払って釈放され、海外渡航が禁止されていることを意にも介さずスパイ映画さながらにベイルートに密航したのだった。

 いまだ個人資産は軽く数千億円あるともいわれている。

 

 親会社のあるフランス当局からも逮捕状が出ており、レバノンから国外へ行くことはリスクを伴う事だたったが、「23」の八百長で儲けるという申し出に抗う事はできなかった。


 日本を脱出するときと同様の手段―― 大型荷物に紛れて ―― 知人のプライベートジェットでここベルリンにやってきた。

 

「まあ、同じ脛に傷持つ者同士、仲良くやりましょうや」

 ジェルジンスキはそう軽口をたたいた。

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