第18話 奇妙な連帯感
天野が沈黙を破る。
「仏典にこんな話があります。キサーゴーダミーという女性が、死んだ息子を抱えてお釈迦様のところへやってきます。『どうかこの子を生き返らせてください』と。
お釈迦様はこうおっしゃいます。『まだ一度も死者を出したことのない家から、
そこでキサーゴーダミーは気づいたのです。人はみんな死ぬのであって、自分の息子だけが特別不幸ではないことを。彼女は息子を埋葬し、そのまま仏門に入りました」
陶子の目が、涙でうるむ。
「ここへ陶子さんが来たときに、私は言いました。あなたの悲しみは、『死んだ夫がかわいそう』だからですか、『夫を亡くした自分がかわいそう』だからですか、と」
漠然と思っていたことを、天野がずばりと言った。やはり本職の僧侶は違う。織田は、
「失礼を承知で言うと、陶子さんはまだ、この二つの区別がついていない。だから私は、瞑想修行を勧めました。雑念や妄想を取り除くことで、正しく物事を見ることができるようになります。そのとき、あなたは自分がどうするべきか、亡き夫とどう接したらいいかがわかるはずです」
陶子が堰を切ったように泣きだす。その声を聞いていると、だんだん自分も悲しい気分になってくる。
織田は、自分が最愛の人、たとえば母を亡くしたら、と想像してみた。
明日も明後日もいてくれるものと思っていたのに、ある日突然死んでしまったら。
こんなことなら、もっと親孝行すればよかった。もっと頻繁に実家に帰って、一緒に買い物に行ったり、壊れたままの縁側を直したりすればよかった。テレビで観たという健康にいい食べものや運動をやたら勧めてくるのを、またマスコミに踊らされてとあしらったりせず聞いておけばよかった。
母のことを大事に思っていたとしても、言葉や行動で伝えなければ意味はなかったのに。
愛美が嗚咽の声を漏らした。それに触発されたように、織田も涙があふれてきて、止まらなくなる。
「いいのですよ、我慢しなくて。悲しみを共有しましょう」
天野の言葉に、全員が泣きだした。
夕貴ですら、はらはらと涙をこぼしている。四人の女性は、気が済むまで声をあげて泣き続けた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。織田は、隣の陶子と顔を見合わせた。
彼女は瞼が腫れ、目が線のようになっている。その向こうの愛美も、涙でマスカラやシャドウが取れ、頬が黒く染まっている。
織田が照れ笑いを浮かべると、二人も恥ずかしそうに微笑んだ。なぜか、不思議な連帯感が生まれていた。
時間はすでに二時半だった。天野はここでの生活の注意事項を説明したあと、カルチャースクールの仏画講師の仕事へ出かけていった。夕貴が車を運転して連れていき、待ち時間に晩御飯の買い物をしておくらしい。
自然庵には織田と愛美、陶子の三人が残された。
一瞬、脱出するチャンスだと思ったが、まだ愛美に事情を説明していないし、財布も携帯も金庫の中だ。外に出たとしても、ファルスに連絡が取れないし、交通費もない。事件性があると確信できないので、警察に駆け込むのも時期尚早な気がする。
夜まで機を待とう、と織田は考え直した。
協力して、遅い昼御飯を作る。メニューは、うどんと果物だ。
炊事や掃除などの作務はもちろん、食事も修行の一環なので、基本的に私語は禁止である。せっかく愛美と接触する機会だったのに、と織田はポケットの中のお守りに手を触れた。
座敷に三人一列になって膳を前に座り、体温測定をする。織田も、持ってきていた経口体温計を取りだす。
三人の女性が無言で体温計をくわえている光景は、滑稽だ。が、起床時、昼食前、加持後の体温変化を見ることで、加持の効果を確かめるため、測定は必須だそうだ。ちなみに、今日の加持は夜に延期されるらしい。
自分の体温を、各自基礎体温表に書き込む。市販のものを流用しているので、妊娠か避妊を希望しているようで居心地が悪い。
織田用の体温表も用意されており、今朝メールで送った体温が記載されていた。体温表は、あとで夕貴が回収し、パソコンデータに記録しているという。もちろん、天野も見るのだろう。
やっと昼食の時間が来た。陶子の「合掌」の号令で、手を合わせ、食前感謝の
食事の際は、何を食べているのか意識できるよう、箸を使う動作や、食物を口に入れて噛む様子を、一々頭の中で言葉に置き換えるよう、注意を受けている。
──右手を動かします。うどんをつかみます。運びます。口を開けます。うどんを入れます。噛みます。噛みます。噛みます。
織田は、言われた通りに実行した。天野は単なるインチキ占い師ではないような気がする。それを見極めるためにも、とりあえず指示に従ってみよう。
動作を言葉に置き換えてみると、今までおざなりに食事をしていたことがよくわかる。食べながら原稿を書いたり、考え事をしながらお菓子をつまんだり。
それは、きちんと生きていないことだったのかもしれない。
──よくみんな、食べながら話をしますが、厳密には「ながら」は存在しません。食べる、話す、食べる、話す、と交互の動作を延々繰り返しているだけなのです。それでは、どっちつかずになります。食べるときは食べることだけに集中する。その訓練の積み重ねが、魔を退けて、よりよく生きることにつながるのです。
天野の話を思い出す。食事の仕方に注意するだけで、何かがわかったように感じられる。
食後感謝の
──立ちます。かがみます。膳を持ちます。起こします。右足を動かします。左足を動かします。
一つひとつの動作をていねいに確認しながら、膳を台所へ運ぶ。三人で手分けして食器を洗ったり、膳を拭いたりする。
「十五分後に瞑想を始めます。それまで、休憩にしましょう」
台所の掛時計を見ながら、陶子が言う。
「トイレは廊下のいちばん奥にあるから」と声をかけられたが、織田は「陶子さん、お先にどうぞ」と譲った。
愛美と二人になれるチャンスだ。
じゃあ、と陶子が台所を出る。足音が遠ざかるのを確認する。
心臓の鼓動が速くなるのを必死で抑えながら、織田は愛美に近寄った。
「香田愛美さん」
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