第11話 おまじないの手紙

 しばらくして、酒と食料を抱えた津島が帰ってきた。案の定、彼は織田の潜入取材に反対したが、坂口社長が押し切った。


 六人で膝を突き合わせて、愛美まなみ救出作戦の打ち合わせをする。

 決行は明後日、月曜日の朝。出勤途中、ホームで何者かに突き落とされそうになった「織田さくら」は、恐怖のあまり天野に連絡を取り、そのまま自然庵じねんあんへおもむく。その日の内に、愛美とコンタクトを取り、司の代理である旨を伝える。夜の闇に紛れて二人で脱出し、待機している車で逃げる。

 初日に動けない場合は、二日目に脱出する。二日たっても音沙汰がない場合は、非常事態とみなし、強硬手段を取る。


 作戦が決まったところで、飲み会に突入した。「デートですねん」と帰った谷崎のことを、社長が揶揄する。

「あいつ、風呂も入ってないのに、よくデートに行けるな。俺なんて、徹夜の日はトイレでホース使って体洗うぞ。管理人のおっちゃんに怒られるけどな」

「あれが作戦なんですよ。『徹夜で仕事やってん。気持ち悪いから風呂入りたいわぁ』とかいう」

 坂口と永井が、谷崎の女たらしネタを酒の肴にしてピッチをあげる。その向かいで、織田は司とビールを飲んだ。津島は自分の席で、自然庵で録音した音声を聞いている。


 昼間の疲れが出たのか、酔いが早く回ってくる。あわててお茶に切り替えたが、ふわふわと雲の上を歩いているように、感覚が頼りない。

 未開封の缶ビールを頬に当てて目を閉じていると、司の声がした。

「織田さん、大丈夫? 飲み過ぎたんじゃ」

 うとうとしていたらしい。織田は両手で頬をたたいた。

「ちょっと、トイレ」


 ふらつく足で立ち上がり、きのこたけのこ論争をする坂口社長と永井のそばを通って、廊下に出る。用を足して手を洗っていると、水の冷たさで頭が少しはっきりしてきた。

「あー、飲み過ぎだな、こりゃ。明日の加持の体温測定、変な数字が出なきゃいいけど」

 ひとりごとを言いながら会議室に戻ろうとすると、パーティションの向こうから津島が顔を出した。


「織田さん、ちょっと」

 はぁい、と間延びした返事をして、あとに続く。背中合わせになっているお互いの席の椅子を引き、向かい合って座る。


「天野に、『思い出したくない過去がある』と言われたとき、一瞬詰まりましたね」

 音声だけなのに、なぜ津島はわかったのだろう。

「何か、あったのですか」


 織田が黙っていると、津島が続けた。

「普段なら、プライバシーに関わることは訊きません。しかし、何か弱みがあるなら、天野に暴かれる前に、ここで話しておいた方がいいでしょう。小生、口の固さには自信があります」


 津島のことは、上司として尊敬し信頼している。放任主義の社長に代わり、企画の立て方から校正、印刷の知識までていねいに教えてくれたのは彼だし、偏屈なようで周りをよく見て気を遣うところもさすがだと思う。


「……小生に話しづらい内容なら、永井さんに言っておきなさい。彼女なら信頼できるでしょう」

 少し寂しそうな顔をして、津島が席を立とうとする。織田はあわてて呼びとめた。

「いや、その……ホント、大したことないんですよ。小四のとき、誘拐されかけたんです。夏休みの宿題で、人のいない駐車場で絵を描いてたら、男が車に乗ったまま近づいてきて」


 その男は、「絵が上手だね」と言って話しかけてきた。その内、助手席側のドアを開けて、赤いスカートをはいて体育座りで絵を描く織田を見ながら、自慰を始めた。しかし、性知識の乏しい当時は意味がわからず、「きっとこの人は病気だから薬を塗っているのだ。奇異な目で見てはいけない」と思ってしまった。


 男は助手席に地図を広げ、「○○へはどう行くの? この地図で指さしてよ」と言ってきた。織田は無防備にも車に近づき、手を引っ張られて中に連れ込まれた。露出した男の下半身が目の前にあった。

 やっと事の重大性に気づいた織田は、夢中で抵抗し、車を飛び降りて全速力で走った。男が車を発進させて、前に回り込もうとしたが、狭い路地に入ってなんとか逃げ切った。


 後日、指名手配犯人の写真が並ぶポスターの中に、その男にそっくりな顔を見つけた。同一人物ではなかったのかもしれないが、運が悪ければ自分は殺されていたかも、と想像すると、夜も眠れなくなった。

 性に関する知識が入ってくると、今度は男性全般が怖くなった。もしあのとき逃げ切れなかったらと思うと、吐き気が止まらなかった。


 自分が女という、ある意味受け身の性であることが悔しくてならず、自分の力で切り開けないことなどないと思っていた子ども時代に、初めて意識した無力感だった。大人になった今も、スカートをはくのが好きじゃないのは、あの無力感を思い出してしまうからかもしれない。


「そんなこんなで、実はちょっと男性が苦手なんです。……あ、小生さんや、ファルスのみんなのことは信頼してますよ」

 津島が腕組みをして視線を落とした。肩まである長い髪が、はらりと落ちて顔を隠す。

「よく話してくれました。……嫌な思いをしたのですね。男性として、申し訳なく思います」

 顔をあげて、津島が織田の目を覗き込む。視線を外すタイミングをつかめず、しばし見つめ合ってしまう。


「少し、待っていてください」

 津島は床を蹴って自分の机に戻り、くるりと背を向けると、引き出しを開けて便せんを取りだした。背中に隠れて見えないが、ボールペンではなく万年筆で何ごとかを書きつけ、社用封筒に入れて糊付けしている。津島が再びこちらを向き直った。


「織田さん」

 封筒を杓のように持ったまま、津島が言った。

「相手はあの手この手で、精神的に貴女を支配しようとするでしょう。もしかしたら、受付の女性のように、天野を魅力的に感じてしまうかもしれません。そのときは」


 津島が封筒を差し出した。

「これを開けてください」


 ゆっくりと手を伸ばして受け取ると、織田はわざわざ〆がされた封筒を、照明に透かして見た。

「なんですか、これ」

「まあ、おまじないのようなものです。……そのような事態にならなければ、未開封のまま小生に返してください。不用意に開けてはいけませんよ」


 津島の真剣な表情に、織田は背筋を伸ばし、封筒を両手で持った。

「わかりました。……ありがとうございます。気をつけて行ってきます」

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