第二幕

第12話 再びの潜入

「着きましたよ」

 夕貴が車のエンジンを切って、微笑みかけてくる。ここは自然庵じねんあんのすぐ近くにある駐車場だ。織田朔耶はおそるおそるドアを開けて降り、あたりを見回した。


 瓦屋根の向こうに竹藪が見える。昨日の恐怖が急によみがえった。

 あの黒いすすの大群は何だったのだろう。もう一度確かめたいのに、怖くてつい目をそらしてしまう。そんな織田の背中を、夕貴がそばまで来てなでさする。

 行きましょう、と促されて、ゆっくりと歩を進める。顔をこわばらせ、竹藪を見ないようにしながら、織田は再び自然庵の門をくぐった。


 打ち合わせ通り、月曜日の朝、織田は天野へ電話をかけた。「ホームで誰かに突き落とされかけた、きっと魔に狙われているのだ」と。


「また狙われたらどうしよう、今度は殺される」と怯えたふりをしてまくしたてると、天野が落ち着いた声で諭してきた。

「今から加持を修して護身しますから、命の危険はありません。が、できればこちらに来てください。最寄り駅まで迎えをやりましょう」


 すぐに行きます、と返事をして電話を切り、織田はすぐそばにいた坂口社長と司に「予定通りです」と言った。朝早くから、司が奉職する神社で安全祈願の御祈祷をしてもらっていたのだ。気持ちの問題かもしれないが、これで心の負担がかなり軽くなった。


 狩衣に烏帽子姿の司から、お守りを二つもらった。銀色のは愛美まなみへ、藍色のは織田へのものだ。それらをカーゴパンツのポケットに入れ、織田は一人で電車に乗った。


 自然庵の最寄り駅には、受付の女性・夕貴が、型の古い軽自動車で待機していた。カバンを抱えて背中を丸めた織田は、助手席に乗り込み「ありがとうございます」と何度も頭を下げた。そして、車中で「もう大丈夫ですよ」と繰り返し言われながら、ここまで来たのだ。


 門の中にいた、黄色い法衣に袈裟姿の天野が近づいてくる。

 本格的な潜入取材の開始だ。


 身を硬くした織田に向かって、天野が真言を唱えながら何かの印を次々に結び、最後に右手の人差指と中指をまっすぐにして残りの指を曲げ、刀のようにして織田の目の前を斜めに斬った。びくりとして、思わず目を閉じる。


「予想以上に強い魔でしたね。何か心当たりはありますか」

 低い声で問う天野に、織田は激しく首を振った。

「とにかく、加持をしましょう。今度は本式のを」


 離れに入っていった天野を追うように、夕貴が織田の肩を抱いて中へ促す。靴を脱いで上がり、前回受付のために通された座敷に通される。

「ちょっと待っててくださいね」

 出て行きかけた夕貴が、「ここは安全なシェルターだから大丈夫ですよ、さくらさん」とほほえんだ。

 自分が「織田さくら」という偽名を使っていたことを再認識する。とりあえず座布団に座り、ここでの目的を頭の中でおさらいする。


 夕貴が飲み物を持って戻ってきた。緊張で喉が渇いていたので、織田は机に置かれるとすぐ、グラスを持って飲み干した。

 麦茶だと思っていたが、妙に苦い。

 軽率だった、何か変なものを飲まされたのかも、と舌に残る味を確かめていると、夕貴が向かいに座った。


「それね、ドクダミとか色んな薬草を乾燥させたものを麦茶に混ぜて煮出してるの。解毒作用があるから、ニキビ予防にもいいんですよ」

 そうなんですか、と氷だけになったグラスを見つめていると、夕貴が続けた。

「うちはね、水にも気を遣っているのよ。飲み水は必ず竹炭でろ過するし、食べ物もここの畑で作った野菜や、山で採ったキノコ、農薬を使っていない国産品を買ってる。だから病気をしないし、なったとしても天野先生が加持で治してくれるから、薬なんか要らないの」


 得意げに語る夕貴の顔を見ると、本当に天野を敬愛しているのだな、と思う。純朴な雰囲気で、あどけなさが残る女の子だ。それなのに、赤い口紅や濃いシャドウを塗っているのが残念でならない。これでは彼女の素材が台無しだ。


 織田自身は、今日は仕事着ということで、普段通りラフな格好をしている。化粧は薄めで口紅もベージュ、黒のTシャツにカーゴパンツだ。左右の太もものポケットには、司にもらったお守りを一つずつ忍ばせている。

 愛美に渡す方には、「この人は味方だから一緒に脱出を図って」という司の直筆手紙を小さく畳んで入れてある。


 足音がして襖が開く。背の高い天野は、立っているだけで威圧感がある。

「加持の準備ができたので、こちらへ」


 ついてくるよう目で促す。織田がカバンを持って立ち上がると、夕貴が「預かっておきますよ」と手を伸ばした。断るわけにもいかないのでカバンを渡して廊下に出る。携帯は暗証番号を入力しないと見られないし、カード類や保険証、本名と年齢がわかるものはすべて置いてきた。今回はボイスレコーダーも持ってきていない。


 天野は、前回占いをした部屋を通り過ぎ、廊下の突き当たりの戸を引いた。スリッパを脱いで中へ入るよう言われる。


 薄暗いその部屋には、正面の台に仏像が置いてあった。炎を背負い、剣と縄を持っている。仏と言うよりは闘神のようで、牙がのぞく怒りの形相がなんとなく怖い。

 その前に護摩壇がある。昔、お寺で見たものと同じで、炉の中には細い護摩木が組まれている。その傍には、金色の法具がたくさん置かれてあった。


「そちらに座ってください」

 扉を入ってすぐの、護摩壇斜め後ろを指さされる。織田は、はい、と答えて板張りの床に正座した。足首の骨が当たって痛い。


「合掌して、できる限り余計なことを考えないよう努めてください。雑念が入ると、加持が効きにくい」

 天野の厳しい表情には、占いのときの気さくな感じはなく、ついかしこまってしまう。


 扉が音を立てて閉まった。

 窓のない部屋で急に光が閉ざされたため、一瞬真っ暗になる。徐々に目が慣れてきて、天野の黄色い法衣がぼんやりと見えてきた。


 壇の前に座った背中はあくまでもまっすぐで、声をかけることはもちろん、こちらが身動きすることさえはばかられるような雰囲気を醸し出している。

 織田はつられて背筋を正し、両手を胸の前で合わせた。


 天野の右側に灯火がともり、護摩木に点火される。炉の中の炎が舐めるようにあがり始めた。炎は瞬く間に大きくなり、闇の中で様々に形を変える。


 天野が真言を唱えながら、傍らの護摩木を炉にくべる。閉じられた暗い部屋の中で激しく動く火に、織田の目は釘付けになった。いくら見ていても飽きないのは炎と波だ、という話を思い出す。空気に触れた外炎が天井に向かってゆらめき、生き物のように見える。


 部屋の温度はどんどん上がり、鼻から吸う空気すら熱を帯びてきた。粘膜や目が乾燥して痛い。あまりの暑さに、呼吸が荒くなり、頭がぼんやりとする。

 天野のよく通る声で紡がれた真言が、異国の音楽のように聞こえる。それは狭い部屋の中で反響し、何重にも増幅するように感じた。視界までもが二重になってくる。


 その時、一筋の炎が、火の粉を巻き上げながら突き昇った。


 火勢を増して巨大な龍の形となったそれは、方向を変えて織田に突進してきた。深紅の龍が目を吊り上げ、大きな口を開けて牙を剥きながら、眼前に迫る。


「いやあっ!」

 織田は叫び声をあげ、頭を覆って伏せた。


 気を失う直前、龍の咆哮を聞いた気がした。

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