第13話 加持と炎龍とブアメードの血

 夢の中で織田は、異国の音楽を聴いていた。

 目の前に、金色の文字が浮かび上がる。何語なのかもわからないが、なんとなく「いいもの」のような気がする。


 意識がふっと引き戻され、体の感覚が戻る。


 目を開けると、天井の木目が見えた。空気は涼やかで、視界も明るい。天野の声に気づいて右横を見上げると、結跏趺坐けっかふざの姿勢で数珠を繰り、真言を唱えている。音楽と思っていたのはこれだったのだ。


「気がつきました?」

 左横で、夕貴が覗き込んでいる。振り向いた拍子に、額に乗っていた濡れタオルが落ちた。

 織田は、自分が布団に寝かされていることに気づいた。起き上がろうとしたが、「加持が終わるまで待って」と夕貴に制される。織田は深呼吸をして、手足の感覚を確かめた。クーラーのきいた部屋に移ったせいで、汗が冷えている。


 真言を聞く内に、さっき見た炎の龍を思い出す。途端に息が詰まって体が強ばる。

「大丈夫ですよ」

 夕貴が小声で言って、タオルを額に乗せてくれる。洗面器の氷水で絞り直したところなので、ひんやりとして気持ちいい。


 再び眠りかけたところで真言が止み、天野が咳払いをする。織田は目を開けて、右横を見上げた。


「何を、見ましたか」


 問いに答えようと、タオルを取って起き上がり、織田は布団に正座した。あれが何だったのか、自分でもよくわからない。思い出しただけで、目の前にまた現れるような気がして、肩に力が入る。


「……龍、でしょうか。護摩壇の火が、たてがみをなびかせて牙を剥く、巨大な蛇のようなものに見えました」

 記憶を反すうするたび、炎の龍に、たてがみや鱗、髭などが細かく形成されていく。大きさも、視界いっぱいに広がっていた気がする。


 天野がまだ黙っているので、織田は仕方なく続けた。

「それが、口を開け、こちらへ向かってきたんです。とにかく怖くて、思わず頭を覆って……そこからは、覚えていません」

 天野が何も言わないので夕貴を盗み見ると、彼女はうっすらと微笑んでいた。


「あれは、何だったんでしょうか」

 織田がおそるおそる訊ねると、天野は半眼のまま答えた。

「龍神です。加持の最中に神仏が炎の中に現れることは、よくあるのですよ。龍神は、あなたに憑いている魔を喰らおうとしたのです。怖いと感じたのは、あなたが魔の影響を受けている証拠」


「影響って……じゃあ、私はすでに魔に憑かれているんでしょうか。この庵の中は安全だって……」

 天野が目を見開き、織田を凝視する。

「前にも言いました通り、魔は、嫉妬や怠け心などの負の感情を増幅させ、人を自滅へと導きます。あなたの場合は恐怖心ですね。必要以上に大きくなっている」


 確かに、竹藪の黒い煤を見たときから、心の片隅で怖れている。理屈では説明できない何かが存在しているのではないか、と。坂口社長の言葉も、超常的なものの存在を認めているようで、逆に落ち着かない。

 今までの自分の常識が足元から覆されるような怖さが、背筋を這う。あの龍をトリックで再現するのは無理だろう。火の粉の熱さも感じたし、咆哮も聞いたのだ。


「だから、ホームで突き落とされそうになったと感じたり、炎の龍を見て怖がったりするのです」

 天野の言葉に、織田はあいまいにうなずいた。


「猜疑心や恐怖心が落ち着くまで、外には出ない方がいいでしょう。また同じことを繰り返して、自滅しかねない」


 でも仕事が、と言うと、天野が半眼に戻って続けた。

「そんな状態で会社に行っても、紙から文字が浮き上がって動きだしたり、蛇口から出た水が蛇になって頭をもたげたりするだけですよ」


 白紙のゲラの上で踊る黒い文字たちを想像する。織田は、滑稽なゆえの不気味さに、吐き気を覚えた。今までの日常が、少しずつ姿を変えて理解できないものになっていく違和感。この分だと、アスファルトの道路が波打ったり、車の前面が顔になって笑いだしたりするかもしれない。まるで百鬼夜行だ。


「釜や皿が命を持って、市中を練り歩く絵や文献が残っているでしょう。あれは、魔に憑かれた人が、恐怖心ゆえ実際に見たものなのですよ。何と言いましたっけ……そう、百鬼夜行」


 心を読まれたのか、と織田は息を呑んだ。天野が意味ありげに微笑む。

「怖いのは、幻影のはずの百鬼夜行が、その人にとってはリアルになることです」

 十九世紀のオランダで、こんな実験をした話があります、と天野が語り始めた。


 被験者をベッドに寝かせ、目隠しをして手足を縛りつける。実験者は、その足指をほんの少しだけ傷つける。うっすらと血が出る程度のものなのだが、被験者には洗面器に雫が落ちる音を聞かせ続け、しばらくしておもむろに言う。

「もう体の血の三分の一は出てしまったね」


 それを聞いた被験者は、本当に死んでしまったというのだ。致死量の血が流れ出てしまった、と思い込むだけで、被験者にとってそれは事実となり命すら奪ってしまう。それほど心は体に影響を与え、いもしない怪物を創り出してしまうのだ、と。


 竹藪の煤や炎の龍を思い出すと、鼻の奥に金属のような匂いがした。

 不安になって、織田はカーゴパンツの右太もものポケットに手をやった。

 司からもらったお守りを、布越しに感じる。念入りに祈祷したから邪気を祓い身を守ってくれるよ、と言っていた。四角い感触を何度もなぞっていると、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。


 ──愛美さんと接触して、早くここを抜け出す。それが本来の目的だったじゃない。呑まれちゃだめだ。

 織田は自分に言い聞かせた。


 同時に、入社当時、津島から教わったことが脳裏に浮かぶ。

 ──情報は、必ず原典に当たるように。伝聞は特に裏を取る必要があります。


 オランダの実験の話が事実とは限らない。想像だけで死んでしまったという話は、小説やマンガではよくあるパターンだ。だからこそ信じてしまいがちだが、裏を取るまでは話半分に聞かなければ。織田は深呼吸して背筋を正した。


「会社は二、三日休みます。……魔に惑わされないためにはどうすればいいか、教えていただけますでしょうか」

  手をついて頭を下げる。起き直ると、天野がうなずいた。


「まずは、外界との接触を断って、魔をブロックしましょう。その上で、加持を修します。さらに、良い気が満ちたものだけを口にし、規則正しい生活を行うことで、体に備わっている自浄作用を促すのです。ジャンクフードを食べ続けると、体調が悪くなるでしょう。その逆をすれば、体はすぐに回復して、同時に心も上向きになるのに、みんなそれをしようとしない。おかしなことです」


 夕貴が、「準備をしてきますね」と言って部屋を出て行った。

 天野が注意事項を続ける。


 携帯電話は特に悪いものを引きこみやすいので、金庫に預け、必要なときのみ付き添いのもとで使用する。パソコンやテレビは、魔に憑かれる恐れがある者は禁止。電磁波は、結界をたやすく越えてしまうからだ。

 お金は、庵にいる間は不要なので、安全のために金庫に預ける。

 滞在費は、食費などの実費のみで、一日千五百円程度。ただし作務は必須なので、掃除、洗濯、炊事、畑仕事などは分担して行う。


 滞在費などは良心的だが、携帯電話とお金を取り上げられるのは手痛い。いざというとき逃げる自由を奪われるのは、精神的な揺さぶりになる、ということを織田は思い知った。

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