第23話 もう一人の外出者

 強烈な尿意で、織田は目が覚めた。


 そういえば、ペットボトルを一本飲み干したのだった。

 明け方まではもちそうもない。織田はそっと起き上がり、襖を開けて階段を下りた。今度は本当にトイレだから、気が楽だ。


 手探りで一階奥のトイレまで進み、電気をつけて用を足す。

 ──私の役回りってアレだな、「ここは俺が食い止める、お前は先に行け!」とか行って主人公を逃がして「幸せになれよ」って天を仰いだあと、死ぬやつ。


 脇役扱いが悔しいのか、司にとって愛美より優先順位が低いことに嫉妬しているのか自分でもわからないが、なぜだか涙がにじんでくる。織田は、トイレットペーパーをカラカラいわせながら巻き取って、涙を拭き、ついでに鼻をかんだ。


 ──疲れてるんだな、私。さっさと寝よ。

 紙を便器に投げ捨て、水を流す。洗った手を拭いているとき、物音に気づいた。

 誰かがトイレに行こうと下りてきたのだろうか。織田は、そっとドアを開けた。玄関から、ねじ式の鍵を開ける音が聞こえてくる。


 ──まさか、愛美さん!?

 電気を消してドアを閉め、足音を立てないように廊下を歩く。階段の陰からのぞくと、誰かが引き戸を開けて外へ出るところだった。長い髪を後ろでくくり、肩にトートバッグをかけている。


 ──夕貴さん?


 夕貴は、音を立てないよう、ゆっくりと引き戸を閉めた。格子状の擦りガラスから、彼女の影が消える。


 ──こんな時間に、どこへ。まさか、天野のところに夜這い?

 やっぱりハーレムという噂は本当だったのか。

 織田はトイレへ引き返した。電気は点けずに、開けた窓から外をのぞき見る。


 月明かりの中、ライトで地面を照らしながら夕貴が歩いている。彼女は、天野がいる離れではなく、門へと向かった。

 ──え、外?


 彼女は織田がしたのと同じように、門の横の小さな木戸を開け、上半身をかがめて外に出ていった。


 庭に静寂が戻ってくる。織田は、閉ざされた木戸を見ながら、呆気にとられた。

 ──夕貴さんは、天野を信じ切っている。夜逃げなんかしそうじゃないのに。


 夜逃げではないのかもしれない。荷物が小さかったし、びくびくした様子がまったくなかった。では、逃げ出す人がいないかの見回りだろうか。


 しばらくたっても、夕貴は帰ってこない。

 いったん二階に戻って、窓から見張ろう。織田が窓を閉めようとすると、離れの建物の引き戸が開いた。ガラガラ、と小さい音が響いて、作務衣姿の天野が出てくる。


 織田は素早く身をかがめた。大丈夫、見つかっていない。

 息を殺して外の様子をうかがう。砂利を踏む音がする。しばらくうろうろしていたかと思うと、足音がこちらに近づいてきた。


「こんばんは」


 窓のすぐ外から、天野の声がした。低く、抑揚のない調子が不気味だ。驚きすぎて心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなって震える。


「びっくりさせちゃいましたかね、さくらさん」

 名指しされて、織田はどきりとした。が、今度は冗談でも言うような声だ。

「まあ、ちょっとお話でもしましょうよ。……眠れなかったんでしょう?」


 隠れても仕方がない。織田は、おずおずと立ち上がった。

 窓から一メートルほど離れたところに、天野がいる。背が高いので、室内にいる織田よりほんの少し目線が低いだけだ。


「そんなに怯えなくていいですよ。夕貴が出ていったから、見に来ただけです」

 とりあえず、自分が咎められるわけではないことに、ほっとする。

「そうなんですか」と織田が言うと、天野がこちらを見据えた。月明かりに青く照らされた顔に、濃い陰影ができる。


「見たんですね、夕貴が出ていくところを」

 しまった、驚いたふりをするべきだった。

 織田は仕方なく、「はい」と答えた。天野が目を伏せる。


「私が、余計なことを言ってしまったからだ」

「え?」

「この町の神社には、神ではなく魔がいる、と言ったことがあるんです」


 そういえば、司が近所の人に聞き込みをしたとき、そんな話があった。

「町内会で注意を促したんですが、誰も聞いてくれない。このままでは危ないから、何とかしなければ。そんな話をしたから、夕貴は調べに行ったのでしょう」


「こんな真夜中に?」

「真夜中だからですよ。夜は、神々や魔の時間ですからね。探りに行くなら、正体をあらわす夜がいいでしょう」

 さも当たり前のことのように、天野が言う。


「夕貴さんも、見える人なんですか?」

「いえ、彼女は見えません。あとで、彼女についた『気』や想念で、二次的に私が見ることは可能ですが」

 坂口と似たようなことを言う。織田は、見えざる世界が本当にある気分になってきた。


「追いかけなくていいんですか?」

「本当に危なくなれば、ここからでも助けることはできます。神社までは車を使ったでしょうし。まあ、放っておきましょう」


 たとえ車でも、夜中に若い女性が一人で出歩くのは危険なのに、迎えに行かないのだろうか。織田が不審に思っていると、天野が語りだした。


「夕貴はね、昔、いじめられっ子だったんです。両親との仲も良くない。常に他人の顔色をうかがって、びくびくしていた。地味で野暮ったい服を着て、目立たないよう小さくなってね」


 話によると、天野と知り合ったころの夕貴は、猫背でうつむいた、自信のない子だった。

 彼女は大学二回生で下宿をしていたが、肩凝りや頭痛がひどくて、授業とバイト以外は出歩きもせず家にこもっていた。健康サイトで相談に乗るうち、天野は技術研鑽のために無料で加持をするともちかけ、SNSのIDを交換した。


 数度の遠隔加持とメッセージのやり取りをし、初めて会った際に天野は「あなたはいい子なんだから、背筋を伸ばして、もっと自信を持ってごらん。それだけで痛みがましになるから」と声をかけた。

 とたんに、夕貴は泣きだし、自分のことを話し始めたという。


 ──信頼しきって、自己開示をしたんだ。

 織田は、神妙に相槌を打った。


 天野が加持をするごとに、夕貴は華やかで明るい女性になっていったという。恐らく、天野の好みに合うよう、彼女自身が意識的に服や化粧を変えたのだろう。それで、素材に合わない、一昔前のVシネマ風の装いだったのだ。


「だから夕貴は今でも、人から好かれたい、役に立ちたい、そうでないと居場所がない、という気持ちが先走ってしまうのです」

 天野が苦笑する。夕貴のことをかわいがる気持ちに嘘はないのだろう。それは博愛

的な意味だろうか、それとも違うのだろうか。

 夕貴の方の感情は、恋愛に近い気がするが。


 天野が両手をパンとたたく。

「いやあ、若い女性とトイレの窓越しに話をするのも、失礼な話でしたね。失敬、失敬」

 打って変わって明るい声だ。


「もう寝なければ、明日に響きますよ。……眠れないなら、加持をしましょう。少し目を閉じてください」


 言われた通り、目を閉じる。

 薄眼を開けようとしたが、無理そうなのでやめておいた。低い声で呪文のようなものが唱えられ、何かが動く気配がする。なんとなく、額の中央があたたかい気も。


「終わりましたよ」

 目を開けると、青白い光の中で天野が微笑んだ。

「では、おやすみなさい。今夜は月がきれいですし、きっといい夢を見ますよ」


 東の空に、黄金色をした半月が見える。織田が窓越しに頭を下げて「おやすみなさい」とあいさつをすると、天野は軽く手を振り、離れへ戻っていった。


 織田はそっと窓を閉め、壁にもたれた。大きなため息が一つ漏れる。

 トイレを出て、階段を上がり部屋へ戻る。

 織田は寝床に倒れ込むと、掛け布団を頭からかぶった。クーラーがついていないので蒸し暑いが、外の世界のすべてと自分を遮断して、落ち着きたかった。


 とにかく、今日は疲れた。

 布団の中で手足を丸めたまま、織田は眠りについた。

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