第22話 深夜の脱出予行

 ようやく愛美と陶子が寝入った。


 織田は陶子の様子に注意しながら、そっと布団を抜け出した。念のため、枕を入れて少し膨らませておく。素足で歩くと畳がメリメリと鳴るので冷や汗を流しながら、一歩一歩移動する。


 慎重に襖を滑らせ、頭を出す。外の様子をうかがったが、特に人の気配はない。廊下に出て、そっと襖を閉める。小型ライトを点けて、織田は階段を下りた。小さな円形の光を頼りに、玄関へと向かう。

 まだ今なら、見つかってもトイレと言い訳できるが、母屋を出てしまえば愛美と同じ目に遭う。


 織田は音を立てないよう、靴を履いて戸に向かった。ネジ巻き式の鍵を、音を立てないようゆっくりと回す。なんとか解錠し終えたが、今度は引き戸を開けなければいけない。取っ手をつかみ、一ミリずつ動かす気持ちで、滑らせる。

 ようやく通り抜けられるだけの幅が開いた。織田は頭を出し、とりあえず見える範囲に何もいないことを確かめる。体を横にして外へ出ると、ゆっくり戸を閉める。


 竹藪の方から葉擦れの音が聞こえた。黒い煤や、愛美から聞いた人魂の話を思い出し、今さら足がすくんでくる。しかし、車で待っている司や坂口のことを考え、織田は拳を握りしめた。


 ──魔なんて、天野の脅しのはず。人魂だって、何かトリックがあるんだ。お守りも持ってるし、大丈夫、大丈夫。


 織田は足元を照らし、砂利の中にある飛び石を選んで歩いた。それでも、静まり返った夜の中で音が浮き上がってしまう。誰かに見られていたら、という不安に押しつぶされそうになりながら、織田はようやく門にたどりついた。


 側面にある小さな木戸を、ライトで照らす。取っ手の部分が閂になっている。そっと横へ引いたのに、木が摩擦で引っかかって開くときに、カン、という大きな音が鳴ってしまった。

 びくりとした心臓をなだめつつ、あたりを見回す。大丈夫のようだ。


 織田は木戸を押し開き、かがみこんで外へ出た。そっと扉を閉めて、立ち上がる。

 ──無事に出られた。


 ほっとして息を吐き出したとき、竹藪がまた風にざわめいた。

 大群の煤を思い出して恐ろしくなり、織田は駐車場へと急いだ。後ろからする葉擦れの音が、笑い声に聞こえる。

 泣きそうになりながら走り続けると、夕貴に乗せてもらった軽自動車の隣に、シルバーの車体が見えた。司の車だ。


 助手席から坂口社長が降り、後部座席の扉を開ける。

 織田はそこに飛び込み、シートへ倒れ込んだ。息が切れて、何度も咳き込む。


 後部座席の扉を閉めて助手席に戻った坂口が、ペットボトルを差し出す。

「大丈夫か、まあ飲め」


 織田は起き上がり、スポーツドリンクを受け取って一気に飲み干した。緊張しすぎて喉がカラカラだったのだ。

 座席に投げ出したライトの光で、心配そうに覗き込む司の顔が見える。織田はあわてて浴衣の裾を正し、咳払いを一つした。


「愛美さんは自然庵にいます。……でも、今日は連れ出せませんでした。彼女、一度自力脱出に失敗したとき、人魂を見たり天野に怖い話を刷り込まれたりで、外に出たらひどい目に遭うって思い込んでいるんです。だから、私が外に出て無事に戻ってくることができたら、明日一緒に逃げる約束をしました」


 司の顔が曇る。織田は彼のコメントを避けるように、浴衣の袖からメモ用紙を取り出し、坂口に渡した。

「潜入して得た、自然庵の情報です」

 坂口がメモを受け取る。


「愛美さんのほかに、自主的に住み込み始めた成瀬陶子さん、天野のアシスタントの夕貴さん、会社勤めをしている川辺亜矢さんがいます。夕貴さんと亜矢さんは別格扱いで、自然庵経営に関わっています」


「メモはあとで確認して裏を取る。オダサク、よくやったぞ!」

 坂口が親指を立てて「グッジョブ!」のサインをする。織田も照れ笑いをして同じ仕草を返す。ファルスでの日常に戻ったようで、ほっとする。


「脱出なんだけど、明日じゃなくて今からじゃダメかな」


 運転席から司が口をはさむ。汗が冷えてきたのか、織田は背筋に嫌なものが流れるのを感じた。走り過ぎたせいもあって、気持ちが悪い。


「まあ、『大丈夫だったから』って愛美ちゃんが納得してくれりゃ、早い方がいいわな」


 坂口が腕組みをして言う。確かにさっさと片をつける方が、負担は大きくても得策だろう。だが、もう織田にはそんな気力も体力も残っていなかった。いっそこのまま家に帰ってしまいたい。


 坂口が窓に寄りかかって続ける。

「でもな、司。今日はもう、これ以上オダサクに無理させるわけにはいかんだろう。丸一日消耗しきっているんだ。愛美ちゃんだって、いきなり言われても心の準備があるだろうし」


 司が不満げな表情をしているのが見える。

 ほのかに好意を寄せている愛美さんのことが心配だからって、友人への配慮を忘れているのでは? 織田は恨めしい気分でうつむいた。


「オダサク、大丈夫か。戻れるか?」

 坂口が身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。いつもは無茶なスケジュールばかり振ってくる社長が気遣いを見せてくれることに、織田は少しだけ気持ちがあたたかくなった。


「大丈夫です、潜入はまだ続行できます。……すみません、チョコか何かありますか? 疲れちゃって」

 おう、もちろん準備万端だ、と坂口がチョコレートやクッキーの入った袋を差し出す。織田は中身を物色し、ナッツ入りのチョコレートを一箱食べた。甘みが口の中に沁み渡り、力が戻ってくる気がする。


「虫歯予防に、ガムも食っとけ」

 歯磨きガムを受け取り、味がなくなるまで噛む。できるだけ、何も考えないようにしながら。その間、三人とも無言だった。


 ゴミを空き袋に入れると、織田はできるだけ明るく言った。

「じゃあ、そろそろ戻ります。仕事もあるのに、遅い時間までありがとうございました。明日、よろしくお願いします」


 ドアを開けたところで、司の声がした。

「織田さん。……気をつけてね。いろいろごめん」

 すまなそうな表情をした司の顔が、ルームランプに照らされている。


「やだなぁ。その『ごめん』は、どこにかかるのよ。そろそろ戻らなきゃまずいから、行きますね」

 織田は外に出ると、扉を叩きつけるように閉めた。フロントガラスに向かって軽く手をあげてあいさつし、そのまま振り向かずに走り去る。


 ──「ごめん」って言いつつ行かせるんなら、せめて「ありがとう」って言ってくれればいいのに。


 もやもやした気持ちのまま、竹藪の横を早足で歩く。

 門の前まで来て、織田は浴衣の着崩れを直し、木戸を開けた。

 出たときと逆の手順で、とにかく慎重に慎重に、元の部屋へ戻る。


 愛美と陶子はすやすやと寝息を立てていた。


 誰にも見つからずに、帰ってくることができた。


 張り詰めていたものから解放された織田は、崩れるように自分の布団へ倒れ込み、枕を抱えてそのまま眠りに落ちた。

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