第24話 手紙の中身

 目の前に、金色の光が満ちあふれている。

 あたたかで、やわらかで、幸せな気分になる。光はゆるやかに凝縮し始め、夜空に浮かぶ月になった。それを誰かが両手でつかみ、胸に抱える。

 袈裟をまとった天野だ。こちらを見て笑っている──。


 明け方の夢は、リンの音にさえぎられた。

 廊下から「起床」という夕貴の声が聞こえる。彼女も無事に、深夜の外出から帰ってきたようだ。


 寝ぼけまなこで体を起こそうとすると、「検温が先よ」と愛美に注意された。起き上がると体温が上昇して、正確に測れないからだ。

 本当に、加持の効果が体温に現れるのだろうか。織田は枕元に置いておいた体温計をくわえ、全身の力を抜いた。


 やっと検温終了の音が鳴り、数値を基礎体温表に書きつける。

 今朝見た夢について考えたい気持ちを抑え、布団をあげたり顔を洗ったりと、支度をする。

 愛美と目が合う。織田が「ね、無事に戻ってきたでしょ」というメッセージを込めて微笑みかけると、彼女は小さくうなずいて視線を外した。


 お揃いの紺色の作務衣を着て、三人で外に出る。天野や夕貴、亜矢はすでに離れの前にいた。体温表を夕貴が回収する。


「おはようございます」

 全員で一斉に礼をする。

「では、朝の気功体操をしましょう。今日は初心者のさくらさんがいるから、簡単なものを」


 天野の指示で、全員が一列に並び、裸足になった。足を肩幅に開き、両手を前から後ろに向けて振る。その時に、何か悪いものを投げ捨てるイメージで行うと、本当に悪い気が出ていくそうだ。


「二十分ほど続けると、足の裏がビリビリします。これが、効いている証拠です。では、始めましょうか」

 ブランコのように手を前後に振り始めるみんなを見て、織田も真似をしてみた。単調だが、リズムに乗ると心地いい。


 天野が近寄ってきて、小声で言う。

「昨日は、いい夢を見ましたか?」

 思いがけない笑顔に、織田は夢の中で月を抱えていた天野を思い出す。はい、と答えると、彼は意味ありげにうなずいた。

「それはよかった」


 通り過ぎる天野の背中を見る。すっと通った背筋がきれいだ、と思う。

 ──きれい? いやいやちょっと待ってよ、私。


 織田は手を振りながら自らにツッコミを入れた。何故だか、天野のことを好意的に思っている自分がいる。

 ──思っていたより、いい人そうだから? 夢に出てきたから? 


 第一印象は悪いのに実際はいい人だったというパターンが、心理学的にはいちばん好意を抱きやすい。

 ──今朝のあれはいい夢だった。でも。


 そういえば、中学のときの友人が、今までまったく意識していなかった男子が夢に出てきて、なぜか好きになってしまったことがあった。自分も、理屈に合わないフェイントにやられてしまったのだろうか。

 織田は、そんな気持ちを捨て去るように、手を前後に振った。


 天野が縁ある人を魔から守ろうと闘う僧侶なのか、妄想をでっちあげてハーレムを作ろうとするエロ坊主なのか、織田は判断しかねていた。

 常識はずれなところはあるが、それなりに自分の信念に従って利他行りたぎょうに励んでいるように思える。実際、夕貴や陶子は「自分の意志でここへ来た」と明言している。


 天野の悪いところを探して愛美にそれをわからせ、確信を持って救出したいのに、悪人とは思えない。それどころか、好意的に見ている自分がいる。


 足の裏が本当にビリビリしてきた。手を振り続けただけなのに、何故こんなにはっきり足裏が反応するのだろう。

 考えていると、織田の前で天野が立ち止まった。

「不思議でしょう。世の中には、理屈ではわからないけれど確かなものが、たくさんあるんですよ」

 微笑みかける天野の顔を正視できず、織田は目をそらした。


 その後もずっと、織田は天野が気になってついつい目で追っていた。そんな様子に気づいたのか、朝食後の休憩時間に、夕貴が笑いながら声をかけてくる。

「さくらさん、今日は天野先生のことばっかり見てるのね」


 見抜かれていたことに気まずくなって、織田は必死で否定した。しかし、夕貴はにやにや笑いをやめない。

「いいんですよ、人を好きになるのは悪いことじゃないもの。先生は出家してるけど、恋愛は自由です。煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい、異性への愛情だって修行の一環なんだから」


 それは教義の曲解じゃないの、と織田は心の中で反論する。それに、自分はただ気になっているだけで、天野を魅力的に思っているわけではない、はずだ。


 ──もしも天野のことを魅力的に感じてしまったら、この封筒を開けてください。


 津島の言葉が頭をよぎった。

「すみません、ちょっと失礼します」


 織田は立ち上がって、座敷を出た。階段を駆け上がり、二階の部屋へ入ると、カバンの底に隠しておいた封筒を取り出した。


 天野に魅力を感じているわけではない、と思いたい。しかし、織田は自分で自分の心がわからなかった。

 昨日からのカルチャーショックで、精神状態が普通ではないのだろうか。ストックホルム症候群のように、天野に好意を抱くことで、無意識に危機を避けようとしているのかもしれない。


 自分自身を信じられないのなら、何を支えにすればいいのかわからない。どうしようもなく不安だ。


 ──小生さん、助けて!


 織田は、藁にもすがる気持ちで封筒を開けた。

 三つ折りにされた紙を取り出して開くと、白い縦罫の便せんの真ん中に、たった一行、青いインクでこう書かれていた。


 貴女あなたを愛しています。


 ──え、何?

 織田は、もう一度便せんを見なおした。

 文字の一つひとつが、自分の知っている漢字やひらがなとは別の記号なのかと一瞬思う。しかし、そこに書かれている一文は、やはり他の意味には取れない。


 ──これって、小生さんが私を、ってこと? まさか。だって、よく永井さんが言ってたじゃない。社長と小生さんはほぼ夫婦、比翼の鳥、連理の枝だって。


 しかし、永井遥香は腐女子である。現実に二人がそういう関係か否かに関係なく、「大学時代からの親友が一緒に会社を立ち上げ、固い信頼関係で結ばれている」というシチュエーションに萌えているだけなのだ。


 実際、あの二人の間に特別な愛情めいたものを感じ取ったことはない。三十八歳独身で彼女がいる風にも見えないから、永井の冗談になんとなく納得していたが、二人とも恐らく異性愛者だ。


 そういえば、津島は最近人気の才媛シンガーソングライターのことを「非常に魅力的です」と言っていた。髪の短い女性が好み、とも。

 ──それにしたって、私? ショートヘアーしか合ってないじゃない。そんな素振りは一度もなかったし。


 津島とのやり取りを思い出そうとすると、階段を上ってくる足音がした。

 織田はあわてて便せんを封筒に入れ、カバンにしまった。折れないよう、ていねいに。


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