第34話 洗脳ほどきと許されない嘘

 坂口が愛美を見据え、強い口調で言う。

「外の世界を、必要以上に怯えるな。生きているってのは、それだけでかなり強いんだ。そうそう人外のものに危害を加えられることはない」


「でも、心が弱っていると魔に入り込まれて、ありえない言動を取ったりするって、天野先生が」

 坂口が櫓上の天野をちらりと見て、咳払いをする。

「あんたは守りが強いから、その心配はない。俺が言うんだから大丈夫だ」


「守りって?」

「たとえば、あのウシネコだ。あんたを心配して、俺に助けを求めてきた。周りから慕われるというのは、それだけで徳がある。必ず誰かが守ってくれる。魔がつけ入る隙なぞないから、安心しろ」

 愛美が小さくうなずく。


「それでも心配なら、あそこにいる神主に祈祷をしてもらうんだな。あいつなら、全力で君を守ってくれる」


 会場の後ろで控えている司の姿を確認して、愛美が照れ笑いを浮かべる。

 彼女は坂口社長に向き直り、「ありがとうございます」と腰を九十度以上折って頭を下げた。


「礼は、あのウシネコに言うんだな。……彼が幽世かくりよ大神おおかみ様の元へいけるよう、お送りしよう」


 坂口が植え込みへと近づき、短い祝詞のりとを唱える。柏手かしわでの音が響きわたると、ニャーンというネコの鳴き声がかすかにした。


「ウッシー!」


 愛美が天を仰ぎ、虚空を見つめる。

 橙色に染まった雲がたなびく西空は、はかなくも美しくて、どこか別の世界につながっているような気がする。


 愛美に向き直った坂口が、穏やかな口調で言う。

「安心しろ。あんたのネコは、今、天に帰った」


 涙をこぼしながら、愛美が彼に向かって手を合わせる。

「ありがとうございます。……おかげで、目が覚めました」


 坂口が、櫓の上をちらりと見てから、一語一語はっきりと言う。

「それは、もうあの拝み屋のところには戻らない、という意味だね?」


「はい。……あたし、何がいちばん大事なのかを見落としていました。両親やウッシーを大事にしなきゃいけないのに、すごく心配をかけてしまった。当たり前のことに、やっと気づきました」


 天野たちに怪しまれないかと心配になるくらい、熱っぽい口調で愛美が言う。

 昨日、「司の従兄が迎えに来る」と言ったから、坂口の芝居に乗ったのかと思ったが、あながち演技ではないのかもしれない。飼いネコへの愛情を思い出すことで、視野を狭めていた呪縛が解けたのだろう。


「じゃあ、あの神主のところに行きなさい」

 はい、と言ってまた深々と礼をし、愛美が司の方へと走っていく。司も走り寄って彼女を迎える。

 何か話している風だが、織田のところまでは聞こえない。人の間から垣間見える、司の嬉しそうな顔から推測するのみだ。


「どうだ、弟子を取られた気分は」

 坂口が再びマイクを手にし、挑発的に声をかける。天野が不愉快そうな表情を誤魔化しもせずに答えた。

「彼女は弟子ではない。加持のために泊まりこんでいた、単なる願主だ」


「そうか。まあ、別にどっちでもいいが。それより」

 坂口が、何かに気づいたように頭上を見る。


「お客さんがいらっしゃったぞ」


 彼の視線の先を、天野たちが追う。織田も確認したが、何も見えない。

「な、いるだろ。あいつ、何か言いたいことがあるらしいぞ」


 天野が、いらついた声で答える。

「嘘をつくな。何もいないではないか」


 沈黙が流れる。さっきまでごうごうと小さく音を立てていた霧発生扇風機ミストファンが、いつの間にか止まっている。


 坂口が一歩進み出て、櫓の後方で控えている陶子を見据えた。


「陶子」


 社長の口が動いたのに、声が違う。スピーカー越しに流れてきたのは、初めて聞く男性の声だった。


「……正泰さん?」


 陶子が、櫓の前方に駆け寄り、坂口を見つめる。

「お嬢さんの縁者か。……成瀬陶子さん」

 今度は、坂口自身の声だった。


「どうして、私の名前を」

 かすれた声で、陶子が訊ねる。

「ある男性が教えてくれた。あんたに言いたいことがあるらしい」


 陶子が息を呑み、きびすを返して走り出した。天野の横を通り抜け、転げ落ちそうな勢いで階段を駆けおりる。

 坂口の前まで来た彼女は、息を切らせながら絞り出すような声をあげた。


「何て……何て言ってるんですか。教えてください!」

 坂口は、再びマイクのスイッチを切り、腰に差した。

 さりげなく立ち位置をずらし、自分と陶子が向かい合っているところが天野から見えるようにする。しばらく目を閉じていたが、やがて薄目を開けて静かに言った。


「自分はここにはいない。惑わされるな。天上で待つ、と」


 陶子の顔がみるみるゆがんでいく。彼女は、低い叫び声をあげて膝をついた。地の底から絞り出すような声だった。

「正泰さん、ごめんなさい。私……」

 最後の方は、何と言っているのかわからない。陶子が泣きながら、頭を抱えたり掻きむしったりする。


「守ってやれなくて、すまない」

 坂口が発した言葉に、陶子が顔を上げ、浅葱色の袴にすがりつく。

「じゃあ、私も連れていって! 今すぐ!」

 しかし、坂口は何も答えない。陶子がおずおずと訊ねる。


「どうして? ……私のこと、許せないから?」


 陶子が震える声で「許して」と「連れていって」を繰り返す。あんなに夫一筋の陶子が詫びるということは、やはり……。


「だって、正泰さんだと思ったのよ。ぼんやりして、体がふわふわ浮いたみたいになって。光に包まれた人が、そばにいた。『正泰さんなの?』って聞いたら、『そうだ』って。だから、私……」


 織田も、護摩を焚く加持を受けたとき、意識が朦朧となった。気がつくと、布団に寝かされていて、しばらく夢うつつから覚めなかった。


 陶子も同じだったのだ。

 そして彼女のときは、部屋に天野と二人きりだったのだろう。


「そうだ」と答えたのは、陶子のためのやさしい嘘なのかもしれない。けれどもその先は、方便で済まされない。


 強烈な吐き気がし、織田は手で口を押さえた。

 天野の「お手伝い」は希望する者だけと言っていたから、激しい嫌悪感を抱きつつも、「理解不能な別次元の人」という位置づけだった。

 その認識は甘かった。こいつは本物のクズだ。


 陶子が「術のため」という見え透いた方便に納得してフリーセックスを容認していたわけも、やっとわかった。

 「術」の存在を認めなければ、他の男に体を許してしまった自分自身に、言い訳が立たないからだ。


 天野の後ろの夕貴を見る。彼女は、無表情を決め込んだまま、冷静に陶子を見下ろしている。


──あの子はどうして、天野なんかを敬愛していられるの。

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