第19話 脱出をはばむもの

 うわずった声で織田が呼びかけると、愛美が返事代わりに目を見開き、小首をかしげた。盗聴器があるといけないので念のため、彼女の耳元で織田はささやいた。


「坂口司さんの代理で来ました。あなたを連れ出す手はずを整えています」


 愛美がこちらを凝視する。

 織田はカーゴパンツの左ポケットに入れてあるお守りを、彼女に差し出した。白銀の布に紫の紐がついており、「照友神社」と縫いとりがある。


「……司兄ちゃん」

 愛美がお守りを受け取り、神社名を指でなぞる。照れたような、困ったような、複雑な表情だ。

「中に、司さんからの手紙が入っています。……もう大丈夫です。私が手引きしますから、安心して」


 足音が近づいてくる。陶子だ。


 愛美はお守りを作務衣のポケットに入れ、「あとで作務の時間に」とささやいた。

 陶子が戻ってくると、愛美が「次、いいですか」と行ってトイレに立った。司の手紙を確認するのだろう。


「休憩時間はおしゃべりしても大丈夫だから、硬くならないでね」

 陶子が微笑む。

「ありがとうございます、陶子さん。……なんか、年上の人を下の名前で呼ぶのって、抵抗ありますね。やっぱり成瀬さんの方がいいですか?」

「ううん、陶子でいいよ」


 彼女の大まかな居住地が知りたい。織田が「私はT区で一人暮らしなんですけど、陶子さんはどちらに」と話を振ると、A市駅の近くだと答えてくれた。イントネーションが違うけれどご出身は、と畳みかけ、故郷が岐阜であることも突きとめた。

「なんだか質問ばっかり。編集さんの職業病かな」

 陶子に釘を刺されたようで、織田はあわてて謝った。


「嫌味じゃないから気にしないで。さくらさんも、初めてのことで不安なんでしょう。天野先生は本当に頼りになる方だから、ここに来られてラッキーだったね」

 落ち着いた口調の中に、天野への信頼が見て取れる。織田が曖昧に返事をすると、「今はまだ半信半疑でも、きっとわかるから」と力強い声で言われた。


 愛美と入れ替わりに、織田もトイレに立つ。鍵を締めて一人きりになると、大きなため息が出た。


 説明されたスケジュールによると、束縛はかなり大きそうだ。

 私語ができる時間はほとんどなく、掃除、炊事、畑仕事、すべてが「修行」とされている。睡眠時間も四時間半と少ない。

 早く帰りたい気持ちと、天野の正体を見極めたい気持ちが、ない交ぜになる。


 織田は、トイレの小窓を開けて首を出した。庵の見取り図を頭に入れる。


 今晩には、愛美を連れてここを脱出する。


 そう自分に言い聞かせながら、織田はポケットから藍色のお守りを取り出して握った。魔なんていない。怯える自分の心が創り出した幻影、のはずだ。

 大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら、織田は台所へ戻った。


 瞑想のために、座敷へ移動する。陶子が、天野の作った「瞑想の仕方」のDVDをセットしてくれる。織田がそれを見ながら実践している間、あとの二人は歩く瞑想をしたり、壁に向かって座禅を組んだりした。


 DVDを一通り見終えた織田も、座布団を二つ折りにして座具の代わりにし、座禅を組む。座っている間の意識の持ち方について注意を受けたのに、じっとしていると、ついいろいろなことを考えてしまう。今頃、ファルスのみんなは何をしているだろう、とか、今晩どうやって愛美を連れ出そう、とか。


 早く終わらないかと時計ばかり見て、やっと五時になった。

 今度は作務の時間だ。トイレ休憩のあと、靴を履いて外へ出る。門の掃除と畑の水やりをするらしい。


「今朝は陶子さんが畑だったから、夕方はあたしがします。さくらさんも一緒に」

 さりげなく愛美が提案する。陶子が「じゃあ」と言って掃除用具を持ち、門へ向かう。ちなみに、門の外の石段までは、結界内だから安全だそうだ。


 愛美に促されてあとに続く。夏の五時過ぎは暑く、陽もまぶしい。日焼け止めを塗っていないのに、と思いつつ日陰を選んで歩き、にじんできた汗を袖でふく。


 母屋の軒下に逆さ吊りにされているブーケ状のものが、風に揺れて乾いた音を立てた。麦茶に入れるドクダミや、スライスされた果肉のようなものを陰干ししている。

 調理に使う水も本当に竹炭でろ過していたし、健康オタクな人はマメだな、と織田は半ばあきれつつも感心した。


 畑は、敷地内の奥の小高くなった場所にある。切り立った山肌や塀に囲まれていて、ここも外からは隔絶されている。


「こっちに」

 愛美が、右奥にある小屋の戸を開ける。

 織田も続いて中に入る。農作業用具が置かれており、大人二人入るのがやっとの空きスペースだ。愛美が声をひそめる。


「手紙、読んだよ。さくらちゃん、司兄ちゃんに頼まれてここまで来たのね。……ありがとう」


 年下の女性に「ちゃん」付けで呼ばれるのは違和感があるが、嘘の設定では愛美と同い年だから、仕方がない。織田も小声で答える。


「今夜、司く……司さんとその従兄に、車で迎えに来てもらう手はずになっています。みんなが寝静まったら、二人で脱出しましょう」


 喜んで応じてくれるものと思ったのに、愛美は返事をしない。

「何か、心配なんですか?」

 織田が訊ねると、愛美がおずおずと答えた。


「あなたも見たでしょ? その……アレを」

 口にするのさえ怖いといった様子だ。織田も、自分が見たものを思い出し、少し背筋が寒くなった。


「もしかして、竹藪の中の黒い塊とか、龍の形の炎とか?」

 愛美がうなずく。

「でも、それは」


 織田の言葉をさえぎるように、愛美がホースの束を持って外へ出る。

「陶子さんに怪しまれちゃいけないから、作業もしよっか」

 門を水拭きしている陶子の姿を確認する。この距離だと、声は伝わらないはずだ。


「まだ暑いから、水やりは最後にして先に草引きしましょ。あたしが畝の左側を引くから、さくらちゃんは右側をお願い」


 愛美がいちばん手前のトマトの畝に入り、しゃがんで草を引き始める。一人分の幅しかないので、織田はその後ろについた。日中の熱がこもった土や草いきれに、むっとする。そういえば、雑草とはいえ、命あるものを引き抜いてもいいのだろうか。


「あたし、ここへ来て三日目に、抜け出そうとしたの」

 織田は顔をあげて、愛美の顔を斜め後ろから見た。


「玄関を開けて、門へ向かった。そしたら、人魂みたいな炎の玉が出たの。塀の向こうを、スーッて横切って……ちょうど、あのあたりに」

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