第6話 魔を滅する加持
覚えがあるかと問われて、織田はおずおずと首を縦に振った。部屋の暗さやロウソクの火、雰囲気を変えた天野に、少なからず威圧されている。
「はい。何週間か前から、帰り道にあとをつけられたり、洗濯物が下着だけなくなっていたり、ゴミを荒らされたりしました」
「ああ、まさに魔の仕業ではないですか!」
天野が身を乗り出す。
「恐らく、魔は誰かに取り憑き、ストーカー行為を行わせています。あなたに恋愛感情を持っている人、もしくは精神的に弱い人でしょう。そういう人には憑きやすいですから。あなたが怯え、疑心暗鬼に陥り、だんだん弱っていくのを、魔は待っているのです」
占いのときと打って変わって低く小さな声で話すから、自然と集中して耳を傾ける形になってしまう。
「ストーカーに憑依しているときと、魔だけのときがありますが、いずれにしてもあなたは狙われています。人のいない道路を歩いていて、何かの気配に怯える。そういう恐怖心は正常な判断を狂わせ、よくないものを呼び寄せる。まさに、魔の思うツボです」
ロウソクの炎が、また大きくなる。
「盗まれた洗濯物やゴミは、呪詛に使われたかもしれませんね。本人が使用したものや髪の毛などは、呪いをかけやすいのです」
一人暮らしをしていれば、洗濯物がなくなったりゴミを荒らされたりというのは、誰でも一度は経験している。織田もつい一週間前、干していた下着がなくなった。それは単なる偶然だ、と思っていたのに、架空の設定だったストーカーが、実は本当にいるのではないか、という気になってきた。久々に買った上下セットのかわいい下着だから狙われたのだと思っていたが、ターゲットは自分だったのかもしれない。
「
企画本の忙しさが最高潮だったころ、似たようなことは考えた。出勤途中、信号の途中でどうしても足が動かなくなり、通りかかった制作部の永井遙香に引っ張られて、なんとか歩けたこともあった。
「どうすれば、いいのでしょうか」
喉がからからで声がうまく出ない中、織田は訊ねた。
天野は目を見つめ返しながら、たっぷりと間を開けたあと、含めるように言った。
「もうおわかりでしょうが、薬は対症療法だから、根本的な解決にはなりません。内臓や精神を痛めつける原因、つまり、魔を取り除くべきなのです」
前のめりの姿勢で織田はうなずいた。取材のためと言い訳をしつつも、もはや心の底に漠然とした恐怖心が植えつけられている。部屋の薄暗さや揺らめくロウソクの炎、天野の僧衣、占いのときとギャップのある真剣な表情や、低くていねいな話し方、それらが不気味な感じをさらに増大させる。
「加持ならば、魔そのものを消すことができます」
天野は手ぶりを交えて話し始めた。
「加持とは、仏様の光を、特定の人や場所に当てることです。普段は、太陽のように万人万物に当たっている御仏の光も、何らかの理由で雲が湧き起こって届かなくなることがあります。行者は加持を修することで、この雲を取り除き、願主に光を当てるのです。御仏の光にかなう魔はいませんから、たちどころに消えます。ストーカー行為も止みますし、願主の体に病巣があるなら、光によって徐々に小さくなります」
愛美もこうやって絡め取られたのだ、と思いながら、織田は相槌を打った。
「簡単な加持なら、この場で修することができます。しばらくは魔の影響を食い止めることができるでしょう」
来た。織田はできるだけ、おどおどした感じで訊ねた。
「ぜひ、お願いします。……あ、でも、おいくらぐらいするんでしょうか」
天野は不敵な笑みを浮かべながら、姿勢を正した。
「今回はお布施ということで、お気持ちだけ包んでいただければ結構です。私は金額は見ませんから、あとで受付にお支払いください」
狙いはお金ではないから、今回は良心的価格でということだろうか。恐らく、愛美のときと同じ足取りをたどっている。手がかりを見逃さないようにしなくては。
「では、今から加持をしましょう。……椅子を一メートルほど後ろに引いてください」
「今、ここでするのですか?」
「今からするのは内護摩と言って、行者の心の中に火を焚くものなので、数珠さえあればできます」
天野が立ち上がる。思ったより背が高い。上司の津島と同じくらいだから、百八十センチはあるだろう。机の上の数珠を取り、二連にして左手に持ち、近づいてくる。
織田は椅子を引き、すかさずカゴバッグの中にかぶせてあるスカーフの柄の位置を確認した。加持の間に動いていたら、探られていた証拠になる。
「合掌して目を閉じてください。背筋と首筋はまっすぐにして」
織田は言われたとおりにした。うつむいていれば薄眼を開けることができるかと思ったのに、正面に立たれては無理だ。
目の前に人の気配がして、数珠を擦り合わせる音が聞こえた。低い声で唱える真言が、音楽のようだ。何度かこっそり目を開けようと試みたが、ときどき額の近くや頭上で小さな風が巻き起こるので、やめておいた。
じっと目を閉じていると、時間が経つのが遅く感じる。瞼の裏の闇に、なぜか極彩色のものがちらちらと見える。
天野の気配が脇を通り、声が後ろへと移動した。そのまま真言を唱え続けている。
今ならば、と織田は瞼を開き、目玉だけを動かした。部屋には他に誰もおらず、バッグの中のスカーフも元のままだ。ほっとして目を正面へ向けたとき、思わず声が出そうになった。
机上のロウソクが、あざやかな緑色の炎をあげている。
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