第32話 神社の屋根にかかる靄
「お前、何様だ。うちの町の者を悪く言うのは許さん!」
代表らしき貫禄のある男が、最前列に詰め寄る。天野も負けじと男をねめつける。
「
救急車で運ばれ人がまばらになったスタッフテントを見て、何人かが不安げな顔をする。が、代表の男は気圧されることなく言い返した。
「やれるもんなら、やってみろ!」
入り口そばと会場奥にある
「ちょw 祭会場で電波系坊主演説中w 神社に魔がいるとか、マジヤバイw」とSNSにつぶやきをアップする者もいる。
「何だ、あれ」
彼の友人たちが、指先を追う。まだほの明るい空を背景に、兜の角のような千木や鰹木をつけた、神社の屋根が見える。
そこから、黒い靄のようなものが湧きあがり、天に向かって炎のように揺らめいている。
──私にも見える。あのとき竹藪で見た、黒い煤に似ている。……まさか、本当に、魔?
織田は、振り向いた津島と顔を見合わせた。彼には見えないらしく、首をかしげている。
黒い靄の出現で、会場は騒然となった。見える者と見えない者がいるらしく、「どこどこ」ときょろきょろする者、「ウソ、マジか!」と見入る者に二分された。
「これでわかっただろう。失礼な態度は水に流してやるから、早くここを去れ」
得意げに、天野が声を張り上げる。が、やはり誰も動かない。
若者たちは彼の方を見向きもせず、神社の屋根を携帯で撮影し、「あれ? 写真には写んない」と仲間同士で騒いでいる。櫓前に詰め寄せた法被姿の男たちは、戸惑いつつも「インチキだ」と争う姿勢を崩さない。
織田は、はしゃいでいる若者たちと黒い靄を見比べた。
あれが不気味ではないのだろうか。テレビの中のことのように、ただ眺め、話のネタにしている。
この違和感は覚えがある。事故現場に遭遇しながら、救助の手伝いも邪魔にならないよう移動することもせず、携帯を構えて写真を撮る人々に対する感情と似ている。
「もういい!」
マイクに乗った天野の声が響きわたる。感情的というより、癇癪を起こしたような声だ。
「せっかく逃げるよう忠告してやっているのに、その態度は何だ!」
あちこちで失笑が漏れる。
「してやってるって、すっげえ上から目線」
「坊さんのくせに気が短すぎるんじゃね?」
眉をひそめた夕貴が動くより先に、天野が声を張り上げた。
「一度、痛い目に遭わないとわからないようだな」
低い声ですごんだ後、急に黙った天野の出方を探るように、周りが静かになる。会場の注目を集めたところで、天野がマイクを構えた。
「あの黒い靄は、気の滞ったところや、人の心の陰に寄ってくる。憑かれたらどうなるか、教えてやろうか」
広場を見まわし、もったいをつけて言う。
「外交的な性格の者は、暴力的になって犯罪を起こす。よく、『カッとなって』とか『魔が差して』って言うだろう。あれだよ。心の制御装置がはずれて自制できなくなる。事件のせいで、人間関係も、社会的信用も失う」
「内向的な者は、自傷行為だな。幻覚や幻聴に悩まされて、精神を病む。目に何か張り付いているからこんなものが見えるんだ、と言ってアイスピックで自分の目玉を突き刺した子もいたな」
想像しただけで、ぞわりと神経が逆立つ。織田は目をぎゅっと閉じた。
「そこまではいかなくても、運に見放されることは確かだ。事故に遭いやすくなる。……ほら、魔がこっちへ来ようとしているぞ」
神社の屋根を指さす。
靄はいよいよ濃くなって、こちらへ流れてきそうに揺らめいている。「ハッタリだ」と息巻く声が、先ほどよりも小さく、頼りなくなった。
「ヤバいんじゃないの」というささやきも漏れ始める。
「信じなくても結構。私は今から、君たちごと魔を調伏する。罪のない者は、影響を受けない。が、少しでもやましいことのある者……他人や動物を苛めたり、悪口を言ったり、ましてや盗みや暴力を働いた者は、罰を受ける。病気か事故か、とにかく自分が心から反省するまで、ろくな目に遭わない。……場合によっては、死に至る」
雰囲気に呑まれて、一部の者たちが怯え始める。
「あんなの、こけおどしだって」という慰めも、「じゃあ、なんでアレが見えるのよ」という声にかき消されていく。
「夕貴、マイクを持っていてくれ」
天野が振り返って、夕貴にマイクを渡す。
左手首に巻いていた長い数珠をほどき、両手で擦り合わせる。シュッシュッ、という音がかすかに伝わる。
いよいよ調伏が始まるのかと織田が身を硬くしたとき、櫓上のスピーカーから声がした。
「調伏の必要はないぞ!」
天野ではなく、坂口社長の声だ。
神社側の植え込みの切れ目から、白衣に
ずんぐりした体型、オールバックの髪に丸眼鏡。坂口社長だ。ハンドマイクを持ち、天野を指さしながら続ける。
「罪のない者は影響を受けないって? 聖書にも『罪なき者、石もてこの女を打て』ってあるだろう。今まで生きてきて、まったく罪のない者なんて、一人もいないに決まってる」
みんなが、神職の姿をした坂口を振り返る。櫓の前に向かって真っすぐに進んでいく彼のため、さながらモーゼのように人の群れが割れて道を作る。
「そういう脅しをかけて、人心を惑わすのはやめろ、天野」
「な……何だ、お前は」
「見ての通り、神主だ」
むき出しの敵意を受け流すように、坂口がとぼけた声で答える。
続いて、
早足で歩いてくる坂口が、すぐそばをすれ違う。こちらを見こそしなかったが、ニヤリとした唇の動きで、織田たちに気づいていることがわかる。
最前列に出た坂口が足を止め、櫓を見上げてマイクを構えた。ちょうど織田たちの斜め前方だ。
「あの神社には、神ではなく魔がいる。祭を中止しろ。……というのが、お前さんの主張だったな」
天野が、夕貴に渡したマイクを取り返し、スイッチを入れる。
「その通りだ」
んー、と坂口がうなりながら、頭をかく。
「そこからして、間違ってるんだよなぁ」
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