第16話 愛情の条件
天野が愛美に質問をはさみ、彼氏の基本情報がわかってくる。
健は三十二歳独身で、劇団やプロダクションには所属しておらず、ダンスやアクションの訓練をするでもない「自称役者」だ。収入源は、契約している結婚式場の司会。一回で六万円もらえるため、「まともにバイトなんて馬鹿馬鹿しくてやってられない」そうだ。
派手好きで、二十代前半に見えるジャニーズ系の顔が自慢のナルシスト。本人いわく、頻繁に女性から言い寄られたり貢がれたりしている。が、「真面目で地に足のついた娘が好み」と愛美を口説いてきた。デートは大抵ファミリーレストランで、「いつか大物俳優になる」と延々語るのが常だが、会計はいつの間にか全額愛美もちになっていた。
「愛美さんは、貯金の三百万円を彼氏にあげても大丈夫か、と言っていましたよね」
思わず「えっ」と声をあげそうになる。織田が聞いた限りでは、健は典型的なダメ男だ。黙って貢ぐなんて、馬鹿としか思えない。
そう考えて、織田はあわてて打ち消した。自分にはわからない何かがあるのかもしれない。
愛美が小さな声で答える。
「はい。でも友達が、絶対騙されてるって言うんです。本当は三百万持ってきた女なんていないのに、あたしにお金を出させたいから、嘘ついてるんだって」
「愛美さん自身は、どう思います?」
「……わからないです。その女性と会ったわけじゃないですし。でも、その人がいるかどうかは、実はあんまり関係ないかもって思います。……うまく言えないけど、問題はあたしの気持ちなんだって。だから、背中を押してもらうためにこちらへ来たのかも」
愛美の彼氏は、たくみに揺さぶりをかけて、彼女にお金を出させようとしているとしか見えない。それなのに、当人は「自分の愛情が本物か」に目が行っている。これも一種の洗脳だろう。
考えこんでいると、天野に話を振られた。
「さくらさん、もし自分が愛美さんだったら、どうします?」
急に言われて戸惑ったが、織田は即答した。
「もちろん、別れます」
「それは、どうして?」
「彼の目的は、お金でしょう。私を愛しているわけじゃないですから」
円陣を見回すと、陶子がかすかにうなずいた。天野が、腕組みをする。
「じゃあ、さくらさんは、相手が愛してくれなければ、自分の愛情を注がないわけですか」
言葉に詰まった。視線が泳いだところを、さらに畳みかけられる。
「これだけ与えてくれたから、これぐらいを返す、と計算ずくで過ごしますか? 三百万円には見合わないから別れる、というふうに」
先生に叱られた小学生のように、恥ずかしさで耳が熱くなる。自分の中に計算高さが染み込んでいることに、織田は驚いた。今まで誰からも言われなかったけれど、さぞかし打算的な人間に見られていたのだろう。自分で自分のことがわからなくなる。今までに何人もの人を知らずに傷つけてきたのかも、と思うと、じっとしていられずに畳の上で転げ回りたくなる。
「では、陶子さんならどうしますか?」
天野が追求をそらしてくれたことに、内心ほっとする。陶子は少し上を向いて思案顔をしたあと、答えた。
「やっぱり私も、別れると思います」
「それはどうして? 考えずに、思いついたことをすぐに答えてください」
「彼のことを愛せないと思います。愛美さんから聞いた限りは、ですけど」
「じゃあ、もし、あなたが愛している人がお金を要求したら、出しますか?」
陶子はすぐにうなずいた。
「夫がそう言ったら、出します。何か理由があるでしょうから。まあ、彼なら、必ず私に話してくれますけど」
「あなたたち夫婦は、強い信頼関係で結ばれているのですね」
天野が「結ばれていた」ではなく現在形で言うと、陶子の顔が華やいだ。咳払いをして、天野が愛美に視線を向ける。
「愛美さんは、彼にお金を渡したいけれど大丈夫か、と思っていた。それは、『彼のことを愛しているけれど、信頼関係ができていないから不安』ということではないでしょうか」
愛美が「その通りです」という表情をする。
「『お金を出しても構わない』と思うのは、彼女が愚かだからではありません。愛情の器が広いのです。自分の有り金をすべて出せる執着のなさは、美徳でもあります。賢帝よりも愚帝に仕えているときの方が、忠誠が試されるものです」
愛美が顔を上げ、背筋を伸ばす。
「しかし」
天野が半眼で深呼吸する。
「今回は相手が悪い。水脈のないところをどんなに掘っても、水は出ないのです。依頼により占いをしたところ、彼氏は魔の影響を強く受けています。このままでは、愛美さんのエネルギーをすべて吸い取り、その上で捨てるでしょう。だから、別れるように勧めました」
再びうつむいた愛美に、天野が続ける。
「すると彼女は、『彼に憑いている魔を取り除いてください』と言ったのです」
純粋といえばそうなのだろうが、何故そこまで健にこだわるのかわからない。愛美なら、他にも好意を寄せる男性はいただろうに。たとえば、司とか。
そう思った途端、織田は胸の奥がざわつくのを感じた。危ない潜入取材をしている友人の自分よりも、付き合ってもいない愛美の方が、司には優先順位が高いなんて。
──あ、そうか。対抗意識だ。
織田はふと思い当たった。
愛美は、「三百万円を持ってきた女」という当て馬へ、知らず知らず対抗意識を燃やしたために、言動がエスカレートしたのだ。
もしもいきなり「お前なら俺にいくら出せる?」と訊かれても、貢ごうとは思わないだろう。架空であれ、その女の登場で「三百万円出すこと」が基準になってしまったのだ。
「彼女は明らかに、彼に憑いた魔に惑わされている。だから私は、愛美さんを魔から遮断して救うために、ここへ留まるよう勧め、携帯も取り上げました」
そうして天野は、魔の恐ろしさを繰り返し愛美に説いた、という。
幻覚や幻聴が頻繁に現れ、まともに生活できなくなる。夢の中に入り込み生命力を奪っていくので、常に倦怠感に悩まされる。そうして弱ったところに取り憑いて、普段ではしないような行動を取らせる。人は魔の言うなりに、他人を傷つけたり、反社会的な行動を取ったり、自滅したりする、と。
「さらに私は、彼に対して
天野の説明によると、調伏法とは相手を呪う密教の修法だ。基本的には悪い部分を取り除く術だから、「意地悪な人が改心した」「暴力的な人がおとなしくなった」程度の効果で済む場合が多い。が、強力な本尊を迎えて修した場合は、相手が死に至ることもある。普通の行者は修したがらない、禁断の法だ。
「彼の嘘つきなところやいい加減な生き方を、反省させるいい機会です。……愛美さん、もう一度言います。健さんに調伏法を修してはどうですか」
天野が、まばたきをせずじっと愛美を見つめる。
「でも……」
「いい加減に目を覚ましなさい!」
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