第17話 死して変わらぬ愛

 天野が愛美を一喝する。

「あなたの気持ちは、もはや愛情ではなく、執着です! 自分がよく見られたい、他人に負けたくない、見返りが欲しいという自己愛です。だから、『男に媚びてそう』と思われるのです」


 厳しい言葉に、織田までびくりとする。愛美は泣きそうな顔で、ぐっと両手を握りしめている。

 沈黙が続く。ずっと正座なので足首が痛いが、崩せる雰囲気ではない。織田はじっと我慢した。やがて、愛美が鼻をすすり、手で両目を拭い始めた。


 天野は、今度は朗読でもするような滑らかな声で諭した。

「愛美さん。あなたは本来、とても思いやりがある愛情深い人です。だからこそ、魔に狙われた。悪循環さえ断ちきれば、取るべき道が自然とわかります。本当の幸せをつかみましょう」


 泣き笑いの表情の愛美が、はい、と言ってうなずく。天野と夕貴が笑顔でそれを見守る。

 確かに愛美は、健とかいうダメ男から引き離すべきだ。

 しかし、傍観者の立場では、「別れた方がいい」とアドバイスするのみで、それ以上立ち入らない。天野は、自分が正しいと思うことには介入し、解決に導こうとしているのかもしれない。是非はともかく、筋は通っているし、姿勢には共感できる、と織田は思った。


「最後に陶子さん。亡くなった旦那さんのことを話してください」


 天野に促され、陶子が背筋を伸ばして口を開く。

「半年前、夫を亡くしました。大学生時代からの付き合いで、就職して三年目に結婚しました」

 意外にも落ち着いた口調だ。


 彼女の夫、正泰まさやすは、古い寺社仏閣や仏像が好きで、同じ趣味の陶子と毎週のように出かけていた。結婚九年目なのに新婚みたいに仲がいいと、既婚の友人たちからいつも羨ましがられる、評判のおしどり夫婦だったという。


「正月休み明けに夫が、頭が割れるように痛い、と言い出したんです。夜間外来でCTを撮ってもらったけど、特に異常はないとのことで、点滴を受け、薬を処方されただけでした」

 正泰の頭痛は治らず、翌朝も「ハンマーで殴られたみたいな頭痛がする」「鼻の奥で血の味がする」と言っていた。彼は、その日は我慢して出社し仕事を片付け、翌日休みを取って大きな病院へ行く、と言い家を出た。


 こめかみを押さえながら顔をしかめる彼に、「いってらっしゃい、無理しないで」と声をかけたのが最後になってしまった。と、陶子は声を震わせた。

「彼が心配だから、お昼にメールをしたら、『なんとか頑張るよ』って返信があったんです。あのとき、今から病院へ行くよう言えばよかった」


 その後、頭痛に耐えられなくなった正泰は会社を早退し、いったん家に帰ったところでクモ膜下出血を起こした。

 パートに出ていた陶子が帰宅して見たのは、コートを着たまま居間に入る手前で倒れている正泰だった。あわてて駆け寄ったが、すでに脈も息もなかった。救急車を呼び人工呼吸をしたが、彼が再び目を覚ますことはなかった。


「あの日、パートに行かなければ。朝の時点で無理やり大きな病院に連れていけば。前の晩に行った病院の当直が研修医でなく名医だったら。そう思うと、つらくて、悔しくて、どうしようもないんです」


 葬式が終わり次第、後を追おう。陶子は本気でそう考えていた。


 しかし、葬儀を終えて自宅に戻ると、寝室のチェストの上に本が置いてあった。

 それは、来月一緒に観に行こうと約束していた映画の原作本だった。本棚にしまっていたはずのもので、陶子が家を出る前にはその場所になかった。


「だから私、思ったんです。正泰さんが死後の世界から会いに来て、僕はここにいるって知らせてくれたんじゃないかって」

 陶子の目が輝く。それを見て、織田は哀しい気持ちになった。


 彼女はなんとか夫とコンタクトを取ろうと、躍起になった。

 彼のスマートフォンは解約せず、電源を入れたままにした。電波を利用して、あの世から自分の携帯へ連絡があるかもしれないからだ。タイミングを逃さないよう、携帯は常に首から下げて持ち歩いた。


 コックリさんの真似ごとをしたり、夢のお告げを聞こうとしたり、考え付くことはすべて実行した。それまでは敬遠していた霊能力やオカルトの本を読み漁り、死んで霊体になった妻と今も夫婦生活を送っているという著者に、手紙を出してコミュニケーションの取り方を訊ねたりもした。


 陶子は引きこもりがちになった。生活費のためにパートは続けたが、何もやる気が起きない。ずっと正泰のことだけ考えていたかった。何をしても、夫のことを思い出した。駅前にできたイタリアンレストランに行きたいけれど、次の給料日まで我慢しようと言っていたこと。春の特別拝観をピックアップして、寺社仏閣巡りの詳細な計画を立てていたこと。パンについているシールを集めるのが好きだったこと。

 ほんの些細な想い出さえ宝物に感じられ、陶子はSNSにそれらを書きつづった。


「最初はSNSの友達も、夫の死を一緒に悲しんだり、想い出話にレスやいいねをつけてくれたのに、二ヶ月、三ヶ月と経つうち、みんな離れていきました。中には、『もう四ヶ月も経つのに、そんなに毎日死んだ人のことを考えるのは不健康だ』って言う人もいました。友達の投稿は、どれも日々の楽しかったことや愚痴や当たり前の日常で、私たちだけが取り残された気になりました。夫に、『もうみんな正泰さんのことは忘れちゃったのかな』と言って、毎日泣いていました」


 陶子には気の毒だが、友達の気持ちもわかる。織田は、そんな自分が薄情なのかな、と自問した。しかし、誰にだって自分の人生がある。他人のヘビーな部分を毎日分かち合えるほどの許容量は持っていないのだ。


「そんなときにSNS経由で、天野先生と知り合ったんです。先生は、私の書き込みに毎日コメントをくださいました。ときには励まし、ときには叱責し、仏教説話を交えて諭していただき、私は少しだけ救われた気持ちになったんです」


 SNS等でやり取りを繰り返したあと、陶子はパートを辞めて、二週間前に自然庵へ来た。最初から住み込むつもりだったという。

「夫が今どうしているのか、知りたいんです。もう一度会えるものなら会いたい。幽霊でいいから、一緒にいたい。一人では、耐えられないんです」


 陶子の必死さが、空気を重くする。死んだ相手に、ここまで変わらない愛情を持ち続ける人は、初めて見た。

 普通は、どんなに悲しんでも徐々に日常へと戻っていく。それに対して罪悪感を持つことがあっても、生きるためには仕方がない。

 しかし陶子のこの様子では、放っておくと死んでしまうのではないか。


 自分なら、陶子に対して適切に接することができるだろうか。織田はうつむいて、畳の目を見つめた。

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