五 おみなえし × Uターンしてきた左官屋
秋・おみなえし佇む楼閣
カサ、カサ
色づき始めた木の上を、大柄な鳥がつついて回る。
まだ紅葉というには程遠いが、葉がこすれる音は数ヶ月前とは大分異なる。若葉が触れ合う控えめな音から、老葉がぶつかり合う乾いた音へと徐々に変わっている。今日は空気が澄んでいるのか、乾いた音がより一層響く。
オミナエシは灰色の塔に寄り添い、そうした様子を感じ取る。
―もう少ししたら、人間たちがやって来る―
・・・
灰色の塔は、かつてはもう少し白かった。上の部分にはガラスが張られ、登っていけばそこから外を眺めることができた。塔の高さは決して高くはない。螺旋階段を数階分登ればすぐにてっぺんだ。それでも、塔自体が高い丘の上に建っているので、上まで行くと街全体を見渡せた。
子どもたちの待ち合わせ場所、地元を離れない恋人たちのデートスポット、早朝散歩する大人たちの目的地などとして、かつてはちょっとした人気スポットだった。かれらは塔のことを、「森灯台」と呼んでいた。確かに、外装に乏しい真っ白な壁と、上にはめられたガラスのつくりは灯台にそっくりだった。
しかしここ最近、灰色の塔を訪れる人はいない。白い壁はくすみ、輝くガラス窓は黄茶色へと変色して光を反射しない。足元の街に人がいなくなったのか、それとも「森灯台」の存在が忘れ去られてしまったのか。森灯台のそばで日々を過ごしていたオミナエシには、その理由を知るすべは無い。ただ森灯台の壁に塗られた白いペンキが剥がれ落ち、時折オミナエシの身体に落ちてくる。それによって、森灯台が日増しに衰えていくのを感じ取るだけだ。森灯台の衰えは、この場所に人間が来なくなった時から始まっている。
だから、オミナエシはいつも言い聞かせているのだ。じぶんと、森灯台を納得させるために。
―もう少ししたら、人間たちがやってくる―
・・・
自分の家から小さく見える森灯台。甲谷が小さいころは、あそこをゴールにかけっこをしたり、海賊ごっこをしたりして遊んでいた。今も時折思い出す、楽しかった思い出に頻繁に登場する。
しかし、大人になり、左官屋になり、修行と称して街を出た。厳しい親方の指導をうけるうちに、左官の腕は上がったが昔の楽しい記憶は抜け落ちていった。がんがん仕事を請け負い、こなしているうちにいつの間にか退職の時を迎え、数十年ぶりに地元に戻ってきた。食べるのに困らない程度の蓄えと、生きるのに困らない程度の小さな仕事の依頼はこの街でもある。久しぶりに手に入れた悠々自適な暮らしを、甲谷は楽しんでいた。
時間に余裕ができたあるとき、家の窓から外を見上げ、ふと目にとまった。森灯台の存在を。それと同時に、幼少期のさまざまな記憶が胸に蘇ってきた。
―森灯台って呼んでたけど、あれ明かりつくんだっけか。確かついたよな。隠れたデートスポットとして人気だったし、夕方でもそんなに怖い場所じゃなかった気がするし。それにしては、何で今まで家から見えてるのに気付かなかったんだ―
甲谷はその日、気がついた時には森灯台を見るようにした。頭を少しだけ出している森灯台は、ずっと変わらずそこにある、ようにみえる。
ところが、日が落ちた時。真っ暗な小山だけが、そこにはあった。
―やっぱり、電源が落ちてるのか。いやそもそも電気がこなくなってるのかもしれない。いずれにしても、俺が若い時のように、暗くなっても立ち寄れるような場所じゃなくなったのは確かだな―
その日から、がぜん森灯台のことが気になりだした甲谷は、自分の家に立ち寄る近所の住人たちに、灯台のことを聞いて回った。
「ああ、もうしばらく行ってないね。まだあったのかね。…この家からは見えるんだね。たしかに、残ってるね。甲谷さんにいわれるまで、存在すらも忘れていたよ」
店舗の壁の塗り直しを依頼してきたパン屋の女将は、そういって笑った。
「私も以前、行ったことはありますが、今は入れないと聞いています。もうできてからずいぶん建ちますし、子どもたちにはあっちに行かないように言い聞かせています」
息子たちの勉強机の制作をお願いに来た女性は、静かにそう言った。
「ああ、もうペンキが剥がれてぼろぼろよ。この前ジョギングのついでで近くまで行ったけどよ、ひどいもんだった。行政は無駄にカネかけて建物作ったら、あとは放置だ。中までは見てねえよ。あの調子じゃ、中の階段もガタガタで使えないんじゃないのか」
甲谷行きつけの居酒屋の店主は、そう管を巻いた。
「まぁ、甲谷さんなら見た目は直せるかもしれねえな。ペンキ塗るのが仕事だろ?」
それだけではないのだが、甲谷は一応頷いておいた。
居酒屋店主の言葉を聞いた日から、彼の言葉が耳について離れない。
「甲谷さんなら見た目は直せるかもしれない、か」
あの森灯台が誰の持ち主なのかも知らないのに、ただ小さい頃お世話になっただけの自分が勝手に直そうと思うのは筋違いだと思う。思うが、一方で左官屋としての性分が顔を出す。
―すぐ近くにぼろぼろの建物があって、自分に直せる技術があって、周りの人間がそれを憂いているのなら。やらない理由が無いだろう―
とはいえ、勝手にいじるのはやはりまずいのではないか。そんな思いがせめぎ合い、甲谷はここ数日、動けずにいた。
しかし、たまたま仕事の依頼がなかったある日、甲谷は決めた。
―とりあえず、今の森灯台の様子を見に行こう。そもそも俺には手の施しようがない状態かもしれないし。直すにしろ直さないにしろ、見ないことには始まらない―
・・・
翌朝。Tシャツに短パン、ねじり鉢巻といういでたちで甲谷は街へと繰り出した。早朝でも散歩をする人や、食材の仕込みをする店舗スタッフなどの動きが見える。
―田舎ほど、朝は早いっていうもんな—
かくいう甲谷自身も、日が昇る前に起きるのが日課となっている。故に、寝ぼけることもふらつくこともなく、朝の街を闊歩する。
森灯台がある小山に近づくにつれ、人の気配は薄くなっていく。出歩いている人たちに遭遇しなくなったのもあるが、そもそも小山の近くに民家が少ない。
—昔は、もっと家があった気がしたが—
甲谷は心の中で首をひねりながら、森灯台を目指して山に足を踏み入れた。
・・・
ガサッ、ガサッ
虫や小動物ではない、大きな生き物が地面を踏みしめる音がして、オミナエシはぴくりと反応する。
パキン、パキン
「うぇ。何でここも剪定してないんだよ。遊歩道が完全にけもの道になってるじゃねえか。本当に、誰も来てないんだな」
小枝が折れる音に続いて、男性の悪態を付く声がしてから、声の主と思しき一人の男性が姿を現した。
—本当に、人間がやってきた―
しかし、オミナエシが期待していた「人間たち」ではなく、たった一人で。
男性は灰色の塔を見上げ、しばし、言葉を失っている。オミナエシはただその様子を見守った。
・・・
甲谷は、言葉が出なかった。
—なんだよ、これ—
森灯台と呼ばれた面影は、形だけだ。灯台と呼ばれる所以になった白い壁は、ところところがが剥げている。剥げたペンキの皮はそのまま地面に散乱し、カラスがゴミ箱をつついたあとのようだ。動揺する気持ちを抑えきれないまま、甲谷は中をのぞく。
—中は、思ったほど酷くはない、が。子どもたちを近づけさせないのもわかるな—
蜘蛛の巣が張られ、近くの枯れ葉が吹き込んでいる中だが、外装ほど剥げてはいなかった。螺旋階段も所々錆びてはいるものの、多少打ち直せば使えそうなレベルだ。
甲谷はいったん外に出て、思案する。
—これを直すなら、俺一人じゃ無理だ。金属加工してる奴とか、大工とかにもこえをかけないといけねぇ。そこまでいったら、もはや俺個人でやれるものでもなくなってくるな。どうしたもんか—
森灯台をもう一度、上から下まで眺めた甲谷は、足元にある黄色い花に気がついた。森灯台の有様に視線を奪われていたが、全体的に薄暗い景色の中で、一本だけ生えている黄色い花は非常に目立つ。甲谷は黄色い花に近づき、問いかけた。
「おめぇは、ずっとここで、森灯台を守ってたのか」
黄色い花は返事をしない。しかし、風が吹いたのか花弁が僅かに上下に揺れた。甲谷の問いを肯定しているように、彼には見えた。それをみて、決断する。
「ひとりでも、ひとつでも気にかけてる存在がいるなら、いっちょ動いてみるか。どうせいつ死んでもいい命だ。やってみようと思ったことに使おうじゃないか。おめえ、それまで待ってろよ」
黄色い花にそういって、甲谷は急ぎ足で街へと戻る。
やると決めたなら、決めるべきことがたくさんある。甲谷は頭の中で作戦を練りながら、久々にやる自発的な仕事に胸を躍らせていた。
—やっぱり職人は、こうじゃねえとな—
・・・
オミナエシは、男性の言葉を反芻し、考える。
—じぶんは、後ろの塔を守っていた意識は無い。ただ、この近くで生まれたから、ずっと塔を見ていただけだ。でも、あの人間は待っていろと言った。待っていて、何か今の状態が変わるなら。待っているのも悪くない。どのみちじぶんは、ここから動かないのだから—
オミナエシの考えを肯定するかのように、やわらかい風が塔とオミナエシの間を抜けていった。
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