夏・せりさざめく渓谷

 ゲコ、ゴロ、ゲコ、ゴロ。カエルの輪唱がひびきわたる。

 セリはその音を聞きながら、時折風が吹くときに自分自身の葉同士をこすり合わせて音を重ねる。ゲコゲコというカエルのリズムと、サラサラ、ザーザーというセリの葉音が重なり合って、ひとつの音楽となっていた。


 ザッ、ザッ。

 心地よい音楽の中に、調和を乱す不自然な音が混ざり始めた。それはどんどんこちらへ近づいてくる。

「観光地って聞いてたから、もう少し道が舗装されてると思ってたけど。まさかこんなけもの道を歩くことになるとはね」

 生い茂った木々の間から、動く影が見える。影はセリの目の前まで来て、立ち止まる。そこまで近づいてはじめて、それが小柄な女性だと気付く。

「予定より遅くなっちゃったけど。これくらいの時間の方が他に人がいなくていいかな。あんまり、にぎやかな時に来たくなかったから」

 女性はそうひとりごちると、足元の砂利に手で触れる。ころあいの良い場所に座り、足を曲げて三角形の形にした。


 女性が自分で言う通り、辺りはもう薄暗い。観光目的の人間がやって来るには遅い時間だ。しかし、女性の頭にはランプらしきものがあり、上も下もファスナーがあちこちについた、便利そうな服を着ている。恐らく暗い道でも歩けるような準備はしているのだろう。セリはとりあえず、そう解釈することにした。

 女性は目の前を流れる水を眺め、ぼんやりと口を開く。

「あの人も、ここに来ていろいろ言葉を零していったのかな。あの人、植物が多い場所に行くとひとり言が増えるんだ。そんなところはわたしと似てるから。返事は無くても、なんとなく聞いてくれている気がするんだよね」

 そういって、女性は辺りを見渡した。横に生えているセリに、意識が向けられる。

「あ、花咲いてる。君ぐらいの位置なら、わたしの声も、あの人の声も聞こえていそうだね。そしたらわたしも、話を聞いてもらおうかな」

 前も同じようなことがあった気がする。そうおもいながら、セリは女性の言葉を待った。


                 ・・・


「わたしがここに来たのは、ある人の紹介なんだ。紹介って言っても、『行ったらいいよ』っておすすめされたわけじゃなくて、ふとしたタイミングで名前が出たんだ。『気がつくといつも、ここに来てる』って」

 女性はそんなふうに話し始めた。

「その人は、わたしの会社と付き合いのある会社の人だったんだけど、もの凄く仕事ができたんだ。わたしの会社とも、わたしが入社する前から関わっていて、社内の人も教えてくれない、仕事の決まりとか社会人のルールについて教えてくれたんだ。ダメなものはダメって、はっきり言ってくれるからありがたかった。

 白黒ハッキリしてる人だったから、ちょっと融通の利かないところもあったけど、わたしのミスに目を瞑ってフォローしてくれることもたくさんあった。わたしにとっては、お姉さんみたいな存在だった。

 ただ……仕事ができて、明るくふるまっていたけれど、仕事は断れなかったみたい。かなりの仕事量を負わされてたみたいなんだ。一時期……去年の末あたりにすごくやつれて、対面で会話できない状態になってた。会社の皆と心配してた。その人が働いてる会社の人も、症状について詳しくは教えてくれなかったし、もしかしたら本当に、知らなかったのかもしれない。よく口を滑らせるあの人の先輩も、何も言わなかったから。

 その後ちょっと復活して、わたしの会社に来て、直接お世話になっている何人かといっしょに、わたしも挨拶させてもらった。『大丈夫ですか?』って言いそうになったけど、大丈夫じゃないのはわかってたから、『息抜きができる場所とか、時間を持ててますか?』って聞いたんだ。そしたら、あの人はこう言ったんだ。『意識的に息を抜こうと思うことはないけど、気がつくといつも、ある場所に向かってる』って。そんな場所はいくつかあるみたいだけど、その中のひとつ、具体的な地名を教えてもらったのがここだったんだ。『そこで気持ちが落ち着くなら、いいですね』とだけ言って、『今後とも宜しくお願いします』って別れたんだ。だけど」

 そこまで一気に言ってから、女性は息を2、3回吸い込んだ。

「それが最後だったんだ。わたしはひとりで、エレベーターの前までその人を見送っていったから、わたしの会社の人で直接彼女を見たのは、わたしが最後だったかもしれない。……あの人は一ヶ月後に、ゴールデンウイークが始まった直後に、亡くなったんだ」


 女性は何度か口から大きく息を吸い、吐く動作を繰り返す。そしてまた口を開く。

「何で亡くなったのかはわからない。向こうの会社の人は、自動車事故だって言ってた。でもそのあと、一日中亡くなった日に発生した自動車事故を調べたけど、それらしいものは出てこなかった。事故の全てがネットに載るわけじゃないから、本当に自動車事故かもしれない。でも、あんなに痩せたあの人を見た後だから、正直、事故だと思えない自分もいた。もう、生きるのが嫌になってしまったんじゃないか、って。

 一方で、そんなに簡単に人生を放り出すような人でもない、って思うんだ。仕事のモチベーションはいつも高かったし、趣味のマラソンは楽しく続けてるって言ってた。本人はいないし、別の会社の人だから、何が正しいか確かめる術は無いんだけどね。……お世話になっていたとはいえ、別の会社の幹部でもないいち個人だから、特に香典も無かった。香典を渡したり、告別式に出席したりしていればわかったのかもしれないけど。……それもあって、亡くなったことがちょっと信じられない」


 女性はしばらくの間、暗い川の流れを見つめていた。

「実は最後にあの人に会ったとき、わたしも仕事の配置替えがあって、あの人と話す機会はこれが最後かもしれないって思ってたんだ。もう二度と、会わないかもしれないって。でも、もう二度と、会えなくなるとは思ってなかった。

 ……正直、どう受け止めていいかわからない。わたしの会社の人はもう普通の日常に戻ってるし、あの人がいた会社の人と話す機会もほとんど無くなってしまったし、わたし一人が引きずってるみたいで、どうにかしたい思いもあるんだけど」


 セリは、はっとした。

 ――『もう二度と会わない』と思うのと『もう二度と会えない』という状態は全く違うのだ。たった一文字、違うだけなのに――

 セリが出逢う色々な生き物や人間たちに対しては、『もう二度と会わない』存在として理解している。それは彼らが、セリのあずかり知らぬところで生きている前提の話だ。実際にそう思っていて、もう一度やってくる生き物や人間も存在していた。

 しかし、彼らが『もう二度と会えない』存在なのだとしたら。むしろ人間より寿命が短いセリは、自分の命が終わることでもう二度と会えなくなる可能性が高い。そうすると今目の前にいる女性を含め、出逢ったあらゆる存在は貴重なのかもしれない。

 いや、日々の生活は似たり寄ったりだが、全く同じ一日というのは存在しない。少しずつ違う一日を繰り返し、セリは生きている。そう考えると、生き物に限らず、あらゆる存在……二日前の土や、つい先ほどまで見ていた太陽なども『二度と会えない』存在なのかもしれない。ならば、あらゆる存在は貴重であり『二度と会えない』モノたちであるのだろう。


                ・・・


 女性はぽん、と音がしそうなくらい勢いよく立ち上がった。

「うだうだ色々言ったけど、ひとつ確かなことがあるんだ。わたし自身が、ちゃんと『生きたい理由』をもってそのために生きようって思ったこと。あの人のぶんまで生きようとまでは思わないけど、あの人が見られなかった景色を、わたしはきちんと見ないといけない。仕事を受け止め続けて流されるのではなく、こちらからぶつかりにいって、物事を見極めたい。そのためには、落ち込んだり後ろ向きになったりしている時間はない」

 そういい切って、女性はセリの方を見る。

「話を聞いてくれてありがとうね。また来るかもしれないけど、その時もよろしくね。わたしは今死ぬわけにはいかないから、ちゃんと装備品活用して帰るね。じゃあまた」

 女性は頭のライトを点灯した。暗い木々の間に、けもの道が浮かび上がる。

 セリは『二度と会えない』かもしれない彼女の無事を願いながら、女性の背中を見送った。

 女性の姿は、木々に覆い隠されあっという間に見えなくなった。

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