なないろ・ななくさ~七草と生きる春夏秋冬~

水涸 木犀

第一部 春のななくさ

一 せり × 息抜きにトレッキングに来たキャリアウーマン

春・せりしげる渓谷

 ジャリ、サク、ジャリ、サクと音がする。

 固くて少し痛い土から、セリは首を突き出して音の正体を探る。土の感触を確かめるのを日課としているが、今日の土はだいぶ痛い。白くつんつん尖った塊が、セリの周りを覆っていた。


「このあたりだと、今の時期でもしもが降りるんだね」

 人間の女性の声がする。少しして、痩せ細った木々の間から、声の主と思しき女性が姿を現した。ピンク色のぴったりとした服と、黒いタイツのようなもの。たまにセリのすぐ脇をランニングする人たちと、同じような格好をしている。彼女は走ってはいないが軽い身のこなしで、足元をジャリ、サク、ジャリ、サク鳴らしながらセリのそばに近づいてきた。

「うーん気持ちいい!空気おいしい!やっぱり、自然の中に来るのは朝がいいね!」

 そういって、セリのすぐ横を通り過ぎ川へと近づく。


 セリが住む川辺は、木々に覆われた静謐せいひつさが人気らしい。

 ――静かだね。空気が美味しいね。気持ちがいいね――ここを訪れる人間たちは、皆同じような感想を口にする。そして皆、セリには目もくれずに川の水に触り、一通り写真を撮って帰ってゆくのだ。そのため、次に彼女から発せられた言葉は予想外だった。

「ここの植物たちも、朝は気持ちいいのかな。ごめんね、人間がお邪魔して」


 人間がやってくることは、日々の小さな変化の一つに過ぎない。謝られることでもないが、無意識に出たらしいその言葉をきっかけに彼女の関心はセリたちに向いたようだ。彼女は地面を何度か踏みしめ、セリの住まいにほど近い、河原の砂利のうえに腰を下ろした。

「私ね、今日の朝夜行バスでこっちに来たんだ。昨日の夕方まで仕事があったんだけど、どうしてもきれいな空気の中で深呼吸がしたくなって、時間調べてバスに飛び乗っちゃった。やっぱり来て良かったな」

 そう言うと彼女は、大きく伸びをした。

「リュックひとつで夜行バスに乗って出かけるとね、他の人のことが全く気にならなくなるんだ。バスの中で、隣に寝ている人のことなんて気にしていたら眠れないし、早朝に現地に着くから、他のルートで来る人たちには会わないし。地元の人にもほとんど会わない。あれだけたくさん夜行バスが出てるのに、現地で夜行バス組の人たちと会わないのは不思議だけど。でも、私が朝バスを降りて近くを歩き回った時、ほんとうに人に会ったことがないんだ。

 だからこうやって、植物に話しかけていても変には思われないし、好きにふるまえるんだ。もちろん、君たちにとって居心地が悪くなるようなふるまいをするつもりはないけど」

 彼女はセリの葉っぱにそっと触れた。くすぐったいけど、嫌な感じがする触り方ではなかった。


 彼女はまた立ち上がり、手を膝に当てて膝を曲げたり伸ばしたりしている。言葉が途切れると、空気を含んだ川の水がゴボゴボ、ポコポコ鳴るのが聞こえてくる。

「やっぱりこの場所はいいね。何をしていても気持ちがいい。……そういえばね。ここに到着してからは会ってないのだけど、夜行バスの待合室で大きいリュックサックを背負った女の子がいたんだ。多分まだ高校生くらいの学生さんだと思うんだけど、若い子でも、こういうところに来て楽しいって思う子がいるんだなって思って、不思議な感じがしたな。

 私が学生の時は、こういうところより、もっと人がたくさん集まるようなレジャー施設に行く方が好きだったから。今も、そういうところも行くよ。でも、普段たくさん人が集まる町で働いてるから、休みの日はむしろ人がいないところに行きたいと思うことの方が多くなったな。人じゃない、人以外のいろんな生き物の命が感じられるところのほうが、今は好き。『誰かのため』じゃなくて、『それぞれがそれぞれの命を自分が生きるために使ってる』っていうのが感じられて、ものすごく気分がすっきりする。

 あなたたちも、なんで自分は生きてるのだろうって考えることはあるのかな」

 答えが返ってこないことはわかっているだろうに、彼女はセリに問いかける。


 生きる、死ぬの感覚が、セリにはよくわからない。自分の気分が良くなるように空と大地、そして川から“力の源”を取り込み、いらないものは出して過ごしているだけだ。ときおり人間や他の動く生き物たちが近くまでやってくるので、その存在を確認したり、いつもとは違う『何かと一緒にいる』状態を楽しんだりはしている。

 他の動く生き物たちは、セリの体をつついたり、食べたりすることもある。そしたら、時間はかかるが自分の体をもう一度大きくする。再び大きくした身体は、以前の身体よりも融通がきき、多くの“力の源”をとりこめる。

 雨はセリの身体を打ち、痛い。でも雨が上がった直後は、大地から貰える“力の源”が美味しくなる。風はセリの身体をあおり、疲れる。でも風が吹いたあとは、身体についた汚れが落ちて“力の源”をとりこみやすくなる。そうしたいからそうするのではない。ただ『そうなっている』だけだ。だから何で生きているか?と問われても『そうなっている』としか答えようがない。


 女性はしばらくの間、じっとセリを見つめていた。

「植物は植物で、たいへんなこともあるんだろうな。簡単に、植物になりたいって思うのは違うんだろうね。人が見る植物と、植物が見る人と、それぞれの実際の生活は全然違うものだろうからね」

 ――それは人間同士、植物同士も同じではないだろうか――セリは、人間のことはわからない。同じように、別の場所で生活しているセリのこともわからない。そもそも、自分がセリという名だということや、自分と同じセリという名をもつ植物が他の色んな場所にいるのだということは、人間たちの会話を聞いてはじめて知った。

 他のセリが自分と同じような、ゴボゴボ、ポコポコ鳴る川辺に住んでいるのか、同じように人の声を聞いているのか、全くわからない。人間も、別の場所に住んでいるほかの人間のことなどわからないのではないだろうか。

 わからないからこそ「なりたい」、なることで相手を知りたい、と思うのではないだろうか。

「それでもやっぱり、一回植物になってみたいなあ。こんなきれいな空気の中で、毎日生きてみたい。きっと生きてるだけで、気持ちいいんだろうな」

 女性はそういうと、うーん、と大きく伸びをした。


 目の前を、小さな影が横切った。女性はびくっと身体を反らし、影の行く先を注視する。影は、動きを緩めてセリの間を飛び回る。黒い身体に輝く青緑色の紋。

「っ、びっくりしたあ。ううんと、アオスジアゲハ?」

 いちど体制を戻した女性は、手を膝についてこちらを眺める。

 アオスジアゲハと呼ばれた蝶は、なおも周りを飛び回る。今の時期、近くに咲く花は無いというのに。なぜかこの蝶は、時折セリの近くに現れてはふらふら彷徨い、いつの間にか何処かに消えてゆくのだった。

「きれいだね。この場所に合ってるな。きれいな場所に来る生き物は、きれいな生き物が多いのかな。日がもっと昇ったら、植物に光が反射してもっときれいになりそうだね。でも、そこまでわたしはいられないかな。きれいな世界をよごしちゃうし」

 女性はそういって、立ち上がった。

「ありがとう。この場所があって、よかった。植物たちも、話を聞いてくれてありがとうね」

 白い手が、ふたたびセリの葉をなでる。そのまま河原の小石、葉のない木の幹をなでながら、少しずつ遠ざかって行く。


 女性のが歩いてゆく道の奥に、木の幹が透けて見えた。

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