三 ごぎょう × 真面目なおまわりさん

春・ごぎょう座す路傍

 ぴゅうう、と風が頬を切る。


 一人の男性が、まくられる裾を直しながら首を縮めて歩く。この場所に、朝の光が届くまでにはあと10分。太陽の熱を受け取れない今、頼りになるのは自分の体温と、ポケットに入れた小さいカイロだけだ。


 急な坂道に差し掛かり、男性はコートのボタンを一番上まで留める。上まで留めると襟が立つため、みっともなくて普段はやらない。しかし、通勤経路の中でこの坂道だけは、襟の防御なしに渡りきれる自信がない。

 ――特に、今日は風が冷たいし。花を探す余裕も無いな――

 本当は、この坂道は男性の通勤途中の楽しみスポットのひとつだ。歩道と車道の境目がない広い道は、端の方が舗装されていない。舗装された道路と民家の間に、10cmくらいの幅の土の道がある。そこから、季節折々の野草たちがひょっこり顔を出してくるのだ。春はハルジオン、ヒメジョオン、シロツメクサ、その他小さい花々が、きつい坂道をのぼる男性の目を楽しませた。しかしそれらの野草が花開くには、今年の天気は寒過ぎる。ぺんぺん草ひとつ生えていない灰色の地面を見て、男性はちいさくため息をつく。

 ――本当は、寒いときほど癒されたいから、花が見たいのだけど――

 人間にとって寒くて辛い時期は、野草にとってもそうなのだろう。致し方ない。男性は覚悟を決めて、急ぎ足で坂道をのぼり始めた。


                 ・・・


 ゴギョウが久しぶりに地面に顔を出した時、周りには生き物の姿が何もなかった。いつも寒い時期は地面に潜み、土が暖かくなってきた頃合いで顔を出すのだが、その時は大抵、周りに別の草花たちが現れているものだった。

 ――出る時期、間違えたかな—―

 土のすこぶる寒い。しかも吹き付ける風も冷たい。暖かい時期にしかここに来ない草花たちは、まだ何処かで、種の状態で閉じこもっているのだろう。彼らの姿が全く見えないということは、まだゴギョウも外に出る時期では無かったということだ。しかし一度顔を出してしまったものは仕方ない。じぶんの身体を低くして、風に飛ばされないようにだけ注意しながら、暖かい日が来るのを待つことにする。

 —―そしたら、そのうち他のひと草花たちもやってくるでしょう。周りが花開くのを見てから、じぶんも咲けばいいかな――

 ゴギョウは葉を数枚放射状に開き、踏ん張る体制をつくった。

 —―あとは、他のひと草花の到着を待つだけだ—―


                ・・・


「ヒッ」

 突然の突風に、思わず変な声がもれる。急いでのぼろうとしたところで、ここの坂道の強風はのぼりおわるのを待ってくれない。都会に勤める同僚はビル風が酷いとよく言うが、ここの突風もかなりのものだと思う。鼻の頭が痛い。ポケットに入れていたカイロを鼻の頭にあてるが、鈍くジーンとしびれる感覚があるだけで暖かくはない。

 —―凍ってた鼻が溶けてるのかな—―

 鼻が凍っているわけは無いのだが、思わずそんな考えが頭に浮かぶくらい、鼻先の感覚が鈍くなっていた。鼻にカイロを当てると、今までポケットでぬくぬくしていた手先が外気に晒される。あちらが立てばこちらが立たず。せめて手の感覚は残しておこうと思いもう一度ポケットに手を戻そうとしたその時、カイロが手から滑り落ちた。

「うわっ」

 さっさと坂道を通り過ぎたい今、少しとはいえ来た道を戻ることも、落ちたカイロを拾うために一旦立ち止まることも辛い。しかし、カイロの有無は午前中の仕事コンディションに大きく関わる。急いで引き返し、近くの地面を見渡した。


                 ・・・


 トサ、と鈍い音がして、ゴギョウのすぐそばに白い塊が落ちてきた。塊に若干こすれた葉が痛い。すぐに、トン、トンという足音とともに人間の男性が歩いてやってくる。

「あ、あった!」

 そういって、白い塊をつまみ上げた。男性が手で払う土が、ゴギョウの身体にもぱらぱらとかかる。

「ってあ! 植物もいた!」

 男性は突然、目線をゴギョウの方に向けちいさく叫んだ。じぶんのことに気付いたのなら、落とした土も払ってくれるとありがたい。そうぼんやりと思いながら、男性の強い視線を受け止め続けた。


                 ・・・


 男性は、思わず叫び声をあげてから周囲を見渡した。あまり大声ではなかったはずだが、仕事上不審者に思われたくはない。誰もいないのを確かめてから、落ちていたカイロの近くに生えていた小さな葉っぱを眺める。

 たんぽぽのように放射状に生えた葉っぱは、端から端まで5cmにも満たない。今朝のように急ぎ足で通り過ぎたら、すぐ脇を歩いていても目に留まることはないだろう。実際に、カイロを探すまで男性は、この葉っぱの存在に気付かなかった。

 花は咲いていないし、つぼみもついていない。しかしこれは、花を咲かせる種類だったはずだ。去年もう少し暖かい時期にこの道を歩いていた時、似たような葉っぱから黄色い花が咲いていたような記憶がある。


 もうすこし、野草に近づいてみる。細い葉っぱはよく見ると、端がくるりと内側に丸まっていた。その姿は、寝ているときに布団の中で、足の指先を丸めている自分の姿を男性に思い出させた。

 ―—そうか。身体の芯は温まっていても、先っぽのほうは寒いのか。植物にとって新芽は、人間にとっての指先とか、鼻の頭とか、足先とかと同じ感覚なのかもしれないな。一番冷える部分だ。縮こまりたくなる気持ち、よくわかるぞ—―

 男性は一瞬、見つけた野草にカイロを当ててあげようかと思ったが。やめた。野草にとってカイロの温度はあつすぎるだろうし、カイロはいつか冷える。当ててすぐに離してしまえば尚更だ。「寒いのが普通」になっているであろう植物にいちど暖かさを覚えさせてしまうと、暖かさが去ったあとの日常の寒さに耐えられなくなってしまうような気がした。

 —―こんなに寒いところに一日中いるんだから、そんなにヤワじゃないんだろうけどさ―—

 だから男性は、葉っぱにかかった土を少しだけ払ってから、言った。

「花を咲かせるのを待ってるよ。俺は毎日ここ通るから。またあとで」

 今年もまた、通勤途中の楽しみが増えた。男性は少しだけ、口元がほころんでいるのを自覚しながら坂道を軽い足取りでのぼっていった。


                 ・・・


 ゴギョウは男性が離れていくのを感じながら、彼に言われたことを思い返した。

 —―花を咲かせるのを待ってる、か。毎日ここを通る、とも言っていたから、毎日自分が花を咲かせているかどうか、チェックしていくんだろうな――

 プレッシャーだな。と感じる一方で、だったら他のひと草花たちがこの地にやってくるのを待つ必要も無いと思う。じぶんのペースで、咲きたい時に咲けばいい。きっとそれまで、あの男性はじぶんの様子を確認しにくる。むしろ他のひととは少しだけ、日をずらして咲いた方が目に留まるかもしれない。

 —とはいえ、ずらすのは本当に、ほんの少しだけだろうけど—

 さすがに今から咲く準備をしていたら寒過ぎて、身体が持たない。花をつけるためには、背の高い茎を伸ばす必要がある。冷たい突風が吹き荒れていたら、たちまちのうちに花が落ちてしまう。低い位置で潜んでいられる葉とは違い、フライングして出てきてもなんとかなる類いのものではないのだ。


 もう少し、あと少しだけ。ちゃんと準備を整えて、冷たい風が止むのを待って、十分茎を伸ばせたら。そしたら花をつけるから。ゴギョウの花はあまり大きくないけれど、なるべく大きな花になるよう頑張るから。

 —―もう少しだけ、待っててね――

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