冬・くずばな支える社

 どんよりとした曇り空の後ろから、うっすら光が差し込む。

 たとえ日の光が弱くとも、クズバナの目の前にある鳥居はわずかな光をとらえ、いつだって白く輝いている。

 日の光が弱いことは、クズバナにとっては死活問題だ。しかしどんな曇りの日だって、その陰に太陽がいることは知っている。だからじっと、日差しが強くなるのを待っている。


 鳥居の向こうから、人影がひとつ、歩いてくる。帽子からだんだん身体全体が見えてきた人間は、クズバナにも見覚えがあった。数か月前から定期的にこのまちを訪れ、町の人たちから「教授」とか「先生」とか呼ばれている人だ。彼がこの町を訪れる日は、かならず社に寄っている。だから今日も、その一環だろう。


 教授は鳥居の隅をくぐり、賽銭箱の前で手を合わせる。そこから境内をぐるりと回り、また鳥居から外へと帰っていくのがいつもの流れだ。しかし、今日は「いつも通り」ではなかった。境内を一周した男は、まっすぐクズバナの方へ向かって歩いてくる。


「この辺りだったような。確か、葛の花が植わっているのは。今だと他の木々と混ざって見分けがつかないな……図鑑を持ってくればよかったか」


 どうやらクズバナを探してくれているらしいが、見つけられないのもやむを得ない。今のクズバナは、花はおろか葉も落とし、細い枝だけの姿となっている。周囲にいるはほぼ全て、冬に葉を落とす落葉広葉樹だから、彼らの枝やそこに巻き付くつる植物たちと、クズバナの区別がつかないのは無理もない。


「ここまで案内してくれたこごえさんが教えてくれたんだが、葛をこの辺りに植えたのは、ちょうど8年前だったらしいね。8年前は、ぼくがこうしたフィールドワークを始めた年なんだ。なんだか縁を感じて、もう一度会いたかったのだけれど。さすがに今は時期が違うか」


 教授は辺りを見渡し、ちょうど向かいにある木の丸太へ腰かける。鳥居へと続く道を挟み、ちょうどクズバナと向かい合う形になった。


「フィールドワークは、よそ者の人間がまちに入って、彼らの営みから社会の特徴や、人の生きざまを見出す行為だ。ぼくはそれに意味があると思っているし、今は続けてきてよかったと思うことが多い。8年も経つと、ぼくの考えに共感してくれる人も増えたし、『ウチに来てください』と言ってくれる行政の人も出てくるくらいになった。でも、始めたころはそうじゃなかった」


 クズバナは黙って――答えようにもそのすべは無いのだが――教授の話を聞く。


「ぼく自身、あまり人とかかわるのが得意な性格じゃない。学生たちが言うには“コミュ障”というやつらしい。だから他人の生活領域に土足で踏み入るような行為には抵抗があったし、できることならそれを避けて研究をしたいとさえ思っていた」


 教授は少し、身を乗り出してクズバナがいる辺りを見渡す。まるで、そこにいるクズバナに確実に言葉を届けようと、模索しているかのようだ。


「でも、大学で先行研究を読み漁って気づいたんだ。今の時代、「いま・ここ」にある人の営みを知るには、たとえ赤の他人であっても、今を生きる人間から学ぶことしかできない、とね。他人様の領域に足を踏み入れるのは、今でも少し怖い。でもそう思うぼくだからこそ、できるフィールドワークのやり方もある。以前、こんなことを言ってもらえた」


 身体を起こした教授は、わずかに口元をやわらげた。


「『学者先生は研究だけして、まちに何も還元せずに帰っていく人が多い。でも亥岡先生のゼミは違うね。先生たちがきたあとは、まちのみんなのやる気が上がるんだ。学生さんたちのやる気を見て、自分たちも頑張らなきゃって思う。きっと先生が、俺たちのことを第一に尊重してくれていて、その気持ちが学生さんたちにも伝わっているんだろう』ってね」


 クズバナに人間の機微はわからないが、研究だけして、自分に何も見返りを与えてくれない人がいるのはなんとなく知っていた。例えばこの神社の由来をここの人にたくさん質問して、それきり何の便りも寄こさない人がいた。それを嘆いている人間を、クズバナは見たことがある。しかし目の前にいる教授は、そういった人間とは違う性質らしい。


「そういわれたときは嬉しかった。ぼくのやり方が間違っていなかったんだと、肯定してもらえた気がした。それからようやく、今の活動にもある程度の自信を持って取り組めるようになったんだ」


 教授は立ち上がり、クズバナのほうへと歩み寄る。


「君は……葛は、花を咲かせる期間こそ短いが、それ以外の期間はしっかり根を張り栄養を蓄える。このまちのおばあちゃんにそう教えてもらったよ。ぼくの研究も一緒だ。目に見える成果が出たり、誰かに褒めてもらったり、研究相手に感謝してもらえたりするのはごくわずかなタイミングだけ。それ以外は、自分の活動に意味があると信じて、真摯に取り組んでいくしかない」


 クズバナは疑問に思う。人間は、花を咲かせない時期はつまらない、つらい時期だと考えるのだろうか? クズバナにとって開花の時期は、確かに人目に付き話のタネになるし、自分自身を成長させるのに重要だ。

 しかし他の時期も、注目こそされないがこのまちの人たちが、じぶんのことを大切に思ってくれていることは知っている。地元の若者が、かつてクズバナを庭で育ててくれた老婆の代わりだと言ってこの場まで来て、日がな一日声をかけてくれるときもある。今目の前にいる教授だってそうだ。パッと見て存在がわからない自分に対して、たくさん話しかけてくれる。そんな日々も悪くないとクズバナは感じている。だから、教授がなぜ、そんなに苦しそうな顔をしているのかがわからない。


「君を……葛の話を見聞きして、ぼくの研究がしんどかった時期のことを思い出してね。でも、ここに君がい続ける限り、ぼくもまだ頑張れる気がするよ。ここはいいまちだ。住む人たちは暖かいし、何より明るい。きっと研究がひと段落着いても、また訪れると思う。そのときにまた、今度はちゃんと君の姿がわかるように図鑑を持ってくる。このまちで得られた成果を、まちの人々だけでなく、君にも聞いてほしい。だから、別れの挨拶は『またね』がいいかな」


 そこまで言い切った教授は、一転して晴れやかな表情をしていた。自分で言った通り「じゃあまた」とクズバナのいる辺りに手をあげて、鳥居をくぐりまちへと戻っていく。


 クズバナは考える。人の言う1年とは、きっと自分が花を咲かせる周期と同じだろう。あと何回、自分が花を咲かせられるかはわからないが、少なくともこのまちの人々がクズバナの存在を忘れないでいる間は、生きていかれるように思う。特に、ずっと間接的に気にかけて世話をしてくれる老婆より先に命尽きるわけにはいくまい。であるならば、きっとあの教授ともまた会うことになるのだろう。あの人間は約束を破らない。そんな気がしたから。


 大切な人間たちが住まうまちの方向を、クズバナはいつまでも見つめていた。

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