冬・あさがお留まる庵
キキョウは、現在進行形で圧迫感を感じていた。
切り花にされてから数日。同じ空間に座して物書きをしている男は、あれ以来毎日水を替えてくれた。しかし彼の丁寧な手入れにもかかわらず、キキョウはだんだん弱っていくじぶんの力を自覚していた。
――きっと、寿命だろう。毎日水を替えてくれる人間には悪いが、じぶんはもともと、花を咲かせていられる期間はそう長くない。根を切られたこの身体の部分だけでは、次に花を咲かせるための準備もできない――
“キキョウ”である以上、必然的に訪れる寿命。キキョウはそれを、ひとり静かに受け入れるつもりでいた。
しかし、ひとつだけ気がかりなことがある。
――じぶんがいなくなった後、この部屋で物書きをしている男はますますじっと動かなくなるのではないだろうか――
人間は自発的によく動き回る生き物だと、キキョウは屋外にいたときに学んでいた。だから目の前にいる男が、その対極の性質を持っているということもわかる。つまり、男の在り様は「人間らしくない」のだ。その生き物らしくない挙動を取っていたら、身体に害があるのではないだろうか。
キキョウが水差しの中にいる間は、男は毎日水を替えるために立ち上がり、離れを出てすぐの水道水が出るところまで歩いていた。わずかな距離だが、これが無くなるのは男にとって大きな違いに思えてならない。
そんなことをキキョウが考えている間にも、男は目の前でひたすらペンを走らせる。時折その手が止まることがあるが、その際は大抵、ペンを額のほうに持っていく。しばらくその体勢をとってから、またペンを紙につけ動かしていくのだ。
――こうして人間の男を眺める毎日も、もうすぐ終わりか――
そう思ったとき、ふと男がキキョウのほうを見上げた。しばらくじっと見つめていたが、立ち上がりキキョウが入った竹筒を手に取る。
――まだ、水を替えるには早いタイミングだけれど――
キキョウは困惑した。男が水を新しくするために立ち上がるのは、大抵日が傾いてきた時分だ。しかし今は、まだ太陽がほぼ家の真上にある。いつもと違う行動のわけを、キキョウは図りかねていた。
竹筒を持った男は、そのまま水をこぼさぬよう、慎重な動きで離れから外に出た。そして母屋に顔を向ける。
「おーい! 今手は空いているか」
「はいはい。なんですか」
男の呼びかけにこたえ、母屋の奥から女性――キキョウを切って竹筒に入れた張本人だ――が出てきた。彼女は竹筒を持っている男を見て、彼が次に発する言葉を待っているようだった。
「この花だが。心なしか弱ってきているようでな。一応毎日水を替えてはいるが、どうにか持たせられないか」
男の言葉に、キキョウは意外感をおぼえた。それは目の前の女性も同じだったらしい。目を丸くしている。
「キキョウに、愛着を持たれたのですか? ……そうですね。お花の寿命は人間よりうんと短いので、このまま切り花として楽しむのは難しいと思います」
「それは、わかっている。だが、俺はどうも手元の原稿用紙にばかり集中しすぎて、目を悪くするきらいがある。視点を変えるために、あの位置にキキョウの花を置いておきたい。色味もうるさくなくて、気に入っているんだ。赤とか、きつい色味だとそっちに意識が持っていかれるが、渋い紫色は執筆の邪魔にならない。だから他の花をまた置く、というのは違う。俺はこの花がいいんだ」
饒舌に語る男を見て、この人間は本当はおしゃべりなのかもしれない、とキキョウは思った。普段はものを書いている姿しか見ていないから誰かと話しているとき、この男がどんな様子なのかを知るすべはない。しかし初めて水を替えてくれた時、男はかなりいろいろなことを言っていた。身体の中に言葉があふれているから、それをペンでしたためているのかもしれない。そんな気もした。
女性はしばらくうーんと唸っていたが、改めて男とキキョウに向き直る。
「では、押し花にする、というのはどうでしょう」
「押し花?」
「ええ。少しお時間はいただきますが、キキョウから水分を抜いて、紙で挟んでおくと押し花ができます。見た目の色味も、少し工夫すればそのままで残しておけますし、しおりのように紙に貼れば前と同じ場所に飾っておけます。もちろん、立体感は無くなってしまいますが」
「なるほど。押し花、か……」
男は押し黙った。キキョウは女性の言葉を聞き、紙に挟まれるさまを想像する。きっとすごい圧迫感だろうし、暗いのだろう。でもその過程を経れば、本来尽きるはずの命をつなぎとめ、男がペンを走らせるさまをまた眺めていることができるのかもしれない。じっと、男の答えを待った。
「……わかった。このまま枯れてしまうよりは、今の姿を部分的でも残してくれた方がいい。気に入っているのはこの色と形だからな。できればそのまま崩さずに、押し花にしてほしい。平面的になってしまうのは、わかっている」
男の答えに、女性はゆっくり頷いた。
「承知いたしました。では、そちらの竹筒ごとお預かりしますね。丁寧に乾かす必要があるので、数日お時間を頂戴しますが。その後、出来上がり次第お持ちしますね」
「ああ。頼む」
そうして竹筒ごと女性の手に渡ったキキョウは、いくつかの過程を経て今、本と本の間に挟まれている。もっとも、本とキキョウの間には何重かの紙が敷かれており、直接触れているわけではない。それでも、それらの紙は緩衝材としての役割をあまり果たしてくれていなかった。
「本は、重いでしょうけど。もう少しの辛抱です」
キキョウを本に挟むとき、女性はそういった。しかし、彼女のいう「もう少し」が具体的にどれくらいなのかがわからない。しかし尋ねることもできず、キキョウは暗闇の中で圧迫感にひたすら耐えた。
何日も経ったのかもしれないし、ほんの数時間かもしれない。いずれにせよ、本から解放されたとき、キキョウの意識はほんのわずかだが残っていた。一応まだ「生きている」といえる状態だろう。
「花も葉も、色味がきちんと残っているわね……。そうしたら、しおりの形にしていきましょうね」
女性は薄っぺらくなったキキョウの身体を手に取ると、今度は綺麗な模様入りの紙へと丁寧に置いた。そして、上から透明な紙を取り出す。
「ぴっちり閉じすぎると、息苦しいでしょうから。花と葉の間は、少し空気を入れて封じますね」
透明な紙は、粘着性があった。ほどなくしてキキョウの身体は紙に固定される。女性の言葉通り、身体の周りにはわずかに隙間があり、一応空気を吸うことも不可能ではない。
「はい。できましたよ。では、あの人のところへ行きましょうね」
女性は立ち上がり、母屋の襖を開け――案外離れと近い場所にいたことに、キキョウはそのとき初めて気づいた――離れに向かって声をかける。
「少し、お時間をよろしいでしょうか。キキョウの押し花が、完成しましたのでお持ちしましたよ」
男は、母屋からの声掛けを高確率で無視する。しかし今回はまもなく
「分かった。今行く」
というくぐもった声と共に、中でごそごそと立ち上がる気配がした。
ほどなくして出てきた男に、女性はキキョウの押し花を手渡した。
「なるほど。こうなるのか……確かに少し色褪せてはいるが、キキョウだとわかるな」
「申し訳ありません。色味はなるべく残すように、工夫してみたのですが……やはり少し、水分を抜く過程で色も落ちてしまったようです」
「いや、手間をかけさせた。これで十分だ。いつもの場所に、飾らせてもらおうとしよう」
男性は口早にそういうと、離れの中へと戻る。そして入って右手の棚の上に、キキョウの押し花を立てかけた。
「今までは、水を替えてやっていたが。これからは、埃を払ってやる必要があるな。いずれにせよ、毎日息抜きをする口実ができた」
男性は満足そうにそういうと、キキョウをじっと見つめる。
「お前の命はもう尽きているのかもしれないし、人間でいうスパゲティ状態で無理やり延命させてしまったのかもしれない。全て、俺のエゴによるものだ。だが、俺自身はお前がそこにいてくれて、感謝している。毎日気に掛けることにはする。だから、植物らしからぬ姿にしたこと、許してはくれないか」
許すも許さないもない、とキキョウは思った。元々じぶんは人間ほど大きく動けない。人間に何かされたら、されるがままになるしかない。しかしそれによって、再び男の姿を見ていられるというのなら。それはそれで悪くない一生だと、感じるのだった。
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