七 あさがお × 小説家の男性とその夫人

秋・あさがお見守る庵

 ※本編では、秋の七草の「朝貌」を「桔梗」と解釈しています



 カリカリカリ……

 こちらに背中を向けた人間が、一心不乱に何かを書いている。

 細い竹筒に収まったキキョウは、すこし高い位置からその姿をながめる。




 キキョウは、建物と柵に挟まれた細い道沿いに住んでいた。

 日中真上から降り注ぐ陽光は心地よいものの、人がひとり通るのがぎりぎりなくらいの僅かな隙間から太陽を拝める時間はごくわずかだった。大方の時間は暗い日陰にこもり、冷風にじっと耐える。建物の中から漏れる人間の声を聞くのが、数少ない愉しみのひとつだった。


 そんなある日、いつものように人間たちの話し声が聞こえてきた。

「……これから3カ月は、離れで執筆をする。食事は母屋で摂るから持ってくる必要はない」

「わかりました。では、離れを掃除しておきますね」

「頼む」

 声が途切れると同時に、目の前の障子が開く。

 前掛けをつけた女性がサンダルをはき、外へと降りてくる。女性は、キキョウがもっともよく見かける人間だ。今付けているのと同じ前掛けをして、色々な物を持ったままよくキキョウの目の前を窮屈そうに通り過ぎてゆく。今日の女性の手には灰色のバケツがある。

「掃除と言っても、何もない部屋だから。拭き掃除とはたきだけでいいかしらね」

 女性はそういって、出てきた建物から歩いて10歩も離れていない、向かいの小部屋へ入っていく。


 ほどなくして小部屋から出てきた女性は、障子を閉めながら呟く。

「ほんとうに、何もない部屋ね。いくら執筆のためだけに使うと言っても、もう少し部屋の中に華があるといいのだけど」

 女性は周囲を見渡し、キキョウに目を留めた。

「あら、キキョウが咲いてたわね。ちょうどいいわ」

 女性は前掛けから小さなハサミを取り出して、キキョウの根元に差し入れる。

 ちょきん、と小気味の良い音がして、キキョウは自分の根と別れを告げた。

 女性は慣れた手つきで縁側に並べられた竹筒を手に取ると、中に水を入れてからキキョウを挿した。

 かくしてキキョウは竹筒に収められ、小部屋の棚の上に置かれたのだった。



 キキョウが小部屋に入ってから間をおかずに、男性が障子を開けた。

「掃除しておきましたが、机しかありませんので、必要なものはご自身で持ち込んでくださいね」

「わかった」

 くぐもって聞こえる女性の声に応えながら、男性が部屋の中に入ってくる。

「あと、右手の棚の上にキキョウの一輪挿しを飾りました。ずっと原稿用紙と向き合っていますと疲れるでしょうから、ときおり目をやっていただければよろしいかと。気がついた時に、水を足してやってください」

「ああ」

 男性はキキョウのことをちらりと見やる。そのまま左側にある机に向かい、脇に抱えていた紙の束を置いた。


 それから母屋と小部屋を何往復かした男性は、ようやく納得のいく環境を整えたらしい。深い紫色の座布団(これも、男性が持ってきたものだ)に腰を下ろし、太いペンを手に取る。

「よし」

 男性は小さく声を出し、ペンを動かし始めた。


 それから何日もの間、カリカリと音を立てる男性の背中をキキョウは見つめ続ける。

 男性は、同じ姿勢でペンを動かし続ける。時折手を留め、顔をあげたり首を回したり、腕を回したりする。しかし、振り返ってキキョウの方を見ることは、ほとんどない。


 ときおり女性が障子の外から控えめに声をかけることがあった。

 曰く、

「ひと段落つきましたら、外の空気を吸ったほうがよろしいかと」

「そろそろお休みになったほうがよいですよ。肩を痛めます」

 などなど。大抵の場合、男性は無言を貫く。女性も返事は求めていないのか、一言だけ声をかけるとそのまま立ち去っているようだ。

 男性は話を全く聞いていないかのように、体の動きを変えない。

 そしてふと、ペンの音が途切れると立ち上がり、小部屋の外へと出ていく。数刻後、

 また小部屋に戻ってくると同じ体制で、同じようにペンを走らせる。

 男性にとって、ペンを動かすことが生活のすべてなのだろう。だから、それ以外の動作をすることは滅多にない。


 ――じぶんとこの人は、似ている――

 キキョウはふとそう思った。

 キキョウは、小部屋の中の同じ場所にひたすら留まり一日を過ごす。男性も、時折席を立ち建物に行くほかは一日小部屋に置かれた座布団の上に留まり、同じ動作を繰り返す。声を発することも、必要以上に動くこともない。それが生活のすべてだ。

 ただひとつ、最大の違いもある。

 —―この人間は、動こうと思えば自分で動ける。ただ、その意志が無いだけで――

 人間は自分の意志で場所を移動することができる。それがどれくらいの範囲なのかキキョウには知るよしもない。それでも、母屋から戻ってくる男性が纏う服、纏うにおいが日々変わることから、“毎日全く同じ空間に身を置いている”というわけではないのだとは察せられた。

 この部屋に来る前、垣根越しに見かけた人間たちも同じだ。キキョウがいた場所は人間たちにとって、留まるべき場所ではなかったらしく、皆早足で横を通り過ぎていく。何度か見かける顔もあるし、一度見たきりでもう会わなくなった顔もあった。彼らもきっと、何か目的があって動いていたのだろう。もしかしたら、キキョウにとって動かないことが普通であるように、人間にとっては動くことが普通のことなのかもしれない。そう考えるとやはり、今目の前に座っている男性は“人間にしては動かない”部類に属するように思われた。


 ふと、座っている男性が振り返った。真っすぐにキキョウを見上げる。

「あ」

 小さく呟いて、キキョウのもとに近づいてきた。竹筒を手にとり、中を覗き込む。

「水、悪い。すぐに変える」

 男性はそういうと、キキョウが入ったままの竹筒を持って外に出た。障子を開けた瞬間、眩しい陽光がキキョウを照らす。ほんの数日間見ていないだけなのに、その強さにくらくらした。

 —―こんなに、外は明るかったのか―—

 男性はかつてキキョウが生活していた垣根の脇を真っすぐ突っ切る。突き当たりに、銀色に光る管が見えた。近づくごとに大きくなるそれは、庭の隅に置かれた水道の蛇口だ。

 蛇口の前まで来た男性は立ち止まってしゃがみ込み、キキョウを竹筒から抜き取る。

 ぴちゃん、という音と共に、竹筒に残されていた僅かな水が地面に落ちた。

 男性はキキョウを手に持ったまま、竹筒の真上で水道管の蛇口を捻る。

 ざあ、ざあ

 勢い良く飛び出した水は竹筒を洗い、跳ね返った水がキキョウ自身にもかかる。竹筒を何度かひっくり返しながら流水にさらしていた男性は、納得した様子で立ち上がる。

「冷たい、と思うが」

 キキョウは男性の手で、ゆっくりと竹筒に差し込まれた。

 男性の言う通り、暗い地下を通ってきたらしい水はひんやりと身体を覆う。しかし、久々に浴びた強過ぎる太陽の光と中和され、程よい冷たさとして茎になじんた。


 男性の手によって再び小部屋に戻ってきたキキョウは、男性がまだじっとこちらを見つめていることに気付く。

「悪かった」

 男性は、もう一度言った。

「人間は、とにかくあらゆる存在に相関性を見出したがる。動物だとか、植物だとかに人間と同じような感情や、意識や、イメージを当てはめて、解釈しようとする。そもそも人間同士だって全然違うから、そんなものはあてにならないわけだが。いつもそんな考えを斜に構えてみていたが、俺自身がそうなっていた。

 お前は俺の机やペンと同じように動かないものだが、誰かから水を貰わないと生きていかれない生物だ。動いて飯を食いにいく俺とも、動かず何も与えられずに役目を果たす机とも違う存在だ。今度からは、毎日水をやる」

 そういうと、男性は座布団の上へと戻っていく。キキョウは、突然饒舌になった男性の話しぶりに驚いたが、それ以上に、小さな気付きに驚いていた。

 —―じぶんは、動けないんじゃない。人間に連れられて動くことができる。そして、知らない世界を見ることができる—―


 男性がずっと書いているものの中にも、知らない世界があるのかもしれない。キキョウはふと、そう思うのだった。

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