第6話『アラヤ様、企まれる』
「でも、本当にお邪魔してしまっていいんですか?」
「いいって言ってるでしょ。弟子なのに月謝も出せないんだから、部屋くらい貸すって」
授業も終わってしまったので、キアナはアラヤを連れて帰ることにした。
クラリオン王立魔法学院から、キアナの家までは、徒歩で一時間ほど。
しかし、王都のメインストリートは、どこも帰宅ラッシュでごった返している。
結局、アパルトメントに着いた頃には辺りは真っ暗になっていた。
建物は四階建てのレンガ造りで、外壁にはクリーム色の漆喰が塗ってある。
一階は果物屋の店舗になっているため、上階へ上がるには路地に面した通用口を使わなくてはならない。
「うわあ、大きいお家ですね! ここに住んでいらっしゃるんですか?」
「……まあ、一応」
キアナは陰鬱な調子で答える。
右手には、フォッカと呼ばれる、平たいパンのような食べ物が握られていた。
普通は何かしら挟んでいただくのが基本だが、彼女のフォッカは具なしだ。
「言っとくけど、これ全部私の家ってわけじゃないからね」
「あはは、それは分かりますよ。何階にお住みなんですか?」
「一番上」
「ええっ、凄いじゃないですか。家賃は大丈夫なんですか?」
「見れば分かるよ」
これが貴族の屋敷なら、偉い人間ほど高いところに住むのが常識だと感じるかもしれない。
だが、ここはそんな上等な住居ではない。
キアナはため息をつきながら、アパルトメントの階段を登っていった。
それなりに清潔感を保っているのは、二階までだ。
そこから上は、完全なる無法地帯である。
食べかすやネズミの死骸など当たり前。
廊下中に生活ゴミがとっちらかり、足の踏み場もない有り様だ。
それどころか、廊下に布で仕切りを作り、住み着いている者すらいる。
まるでスラム街のようだ。
キアナの知識では、聖者アラヤはイスラ王家の生まれのはず。
こんな魔境じみた空間など、足を踏み入れたことすらあるまい。
キアナは露悪的な快感を覚えながら、アラヤの顔を伺い見る。
ところが、彼は何やら感じ入るところがあるようだった。
「建築技術の賜物ですね。本来なら路上生活を余儀なくされているような人々でも、こうして屋根のあるところで暮らすことができる。素晴らしいことです」
「……そうね」
考えてみれば、アラヤは自分より何倍も年上なのだ。
その分、見識だって広いに決まっている。
このくらいの光景なら、飽きるほど見てきたのだろう。
キアナは自分の浅はかさを恥じた。
三階に上がると、レンガ積みだった階段がオンボロな木製になってしまった。
一歩踏みしめるだけで、頼りなくギシギシと軋む。
耐久性や耐用年数のことなど、一ミリも考慮していないに違いない。
と、ここでキアナは不愉快な住人と鉢合わせした。
「おっ、偶然だねえキアナちゃん! 今日も可愛いねえ」
「……こんばんは、カルロさん」
あくまで他人行儀に、キアナは小さく首を傾けた。
茶色い巻毛を短く刈り込んだ、若い男だ。
瞳孔の小さい目に、大きな
だらしなく歪められた口元から見える歯は、ほとんどが抜け落ちている。
階段で待ち伏せておいて、よくも偶然などと言えたものだ。
ここから先は、自分一人しか住んでいないというのに。
カルロは手に持った陶器製のツボを掲げ、おどけた身振りをした。
「どう? 今夜一杯。これ、帝国の酒なんだけど、めちゃくちゃ美味いから! キアナちゃん絶対ハマるって!」
「いやー……私お酒はちょっと」
「ええー、もったいないなあ。お酒飲めないなんて、人生半分損してるよ?」
クラリオンでは、男女ともに十四才から法的に成人として扱われる。
それに際して飲酒も解禁されるのだが、キアナは口をつけたこともなかった。
仮に酒が好きでも、この男と
と、キアナは閃いて、隣にいたアラヤの背中をぐいっと押した。
「ほら! この子私の親戚なんですけど、まだ未成年なんで。子どもがいる部屋で、お酒は飲んじゃダメなんですよ」
「……は? 誰こいつ」
男と見るや、露骨にテンションが下がるカルロ。
今まで、本気でキアナしか視界に入っていなかったのだろう。
あまりの分かりやすさに、キアナは内心苦笑いする。
そんなカルロの無礼な反応にもめげず、アラヤはにっこりと微笑んだ。
「アラヤと申します。これから当分の間、キアナさんのお部屋に居候させていただく予定で――」
「はあ~~~~!? マジだりい! 何だよそれ! めっちゃうぜえんだけど! どっか行けよ図々しいなテメエ!」
(どの口が言ってんだか)
途端、つばを飛ばしながら怒鳴り散らすカルロ。
正気とは思えない剣幕に、付近の住人がこちらを覗き込んでくる。
決して助けに入ろうとはしないが。
慌ててキアナはとりなそうとする。
「そんなこと言わないでくださいよ。まだ子どもですし、遠くから私を頼って来てくれたんですから……あ、じゃあ今度一緒にお昼でも食べに行きましょうよ。美味しいお店見つけたので」
「え、マジ!? おっしゃ行こ行こ! いつ行く?」
「あー、それはまたおいおいってことで」
さっきまでの怒りはどこへやら。
すっかり機嫌が良くなったカルロに詰め寄られ、キアナはたじたじとなる。
「アラヤ君だっけ? 遠くから偉いねー。これ、お近づきの印。今夜キアナちゃんと飲みなよ。あとで返せとか言わないからさ!」
「わ、ありがとうございます!」
酒瓶をアラヤに押しつけると、カルロは鼻歌を歌いながら廊下の角へ姿を消した。
遠くの方で、バタンとドアが閉まる音を確認してから、キアナはぐったりと肩を落とす。
「はあー……また面倒なことに」
「あの人、いつからお知り合いになったんですか?」
「先月。引っ越しのときちょっと手伝ったら気に入られちゃったみたいでさ。それ以来あの調子で……」
「それは大変ですね……」
「本当によ。あんまり強く出るとさっきみたいに喚き始めるから、もう怖くて怖くて……」
憔悴しきった様子のキアナ。
アラヤは思慮深げに言った。
「あまり話が通じる人ではなさそうですし、根本的な解決が必要ですね」
「根本的な解決?」
「ええ。ちょうど向こうから仕掛けてきてくれたようなので、乗ってしまいましょう」
「何のこと?」
「お酒ですよ」
アラヤが持ち上げた酒瓶から漂う、強い刺激臭にキアナは顔をしかめた。
暗くてよく見えないが、中身はエール酒だろうか。
往々にして、外部の酒は質が低く、悪酔いしやすいと聞く。
ましてやカルロが寄越してきた代物だ。
とても飲む気にはならない。
「それが何なの?」
「これ、ものすごく強いので、弱い人だとすぐ泥酔してしまうと思います。ほとんど毒ですよ」
「どこがいい酒なんだか。よくこんなもの人にあげる気になったものね」
その程度の男にまとわりつかれている自分が情けなくなるくらいだ。
ところが、アラヤは首を振った。
「いえ、質が悪いのは承知の上だと思いますよ」
「どういうこと?」
「カルロさんはキアナさんと飲むつもりだったんですよね? おそらく、キアナさんのお部屋で」
その意味に気づいた瞬間、キアナは背筋がぞわっと寒くなった。
もしアラヤがいなかったら、無理やり上がりこまれていたかもしれない。
そして、断りきれずに一杯だけ飲む羽目になって……。
これ以上は、想像するのもおぞましい。
「ほんっとに最低……! 捨てよ、こんなの」
「いえいえ、せっかくいただいたものですから」
そう言って、アラヤは自分の髪をかき上げる。
伸び放題の黒髪は、とても少年のものとは思えないほど艷やかだ。
「しっかりいただいてしまいしょう」
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