第7話『アラヤ様、間違われる』


 数時間後。

 静まり返ったアパルトメントの中を、足音を忍ばせて歩く男がいた。

 カルロだ。

 外からの星明かりだけを頼りに、慣れた足取りで階段を登っていく。

 目指す先は、もちろんキアナの部屋だ。

 

(へっへっへ……どんな格好で寝てんのかな、あの女)


 アパルトメントの最上階とは、すなわち屋根裏部屋のことだ。

 夏は熱気で蒸し焼き。冬は隙間風で極寒。

 そして通年で湿気がこもりまくる、最悪の物件である。


 こんなところに住んでいる時点で、経済状況は推して知るべし。

 魔法学院の制服を寝間着にするとも思えない。

 となると、寝ているときの彼女は……。


 卑猥ひわいな空想に浸りながら、カルロはそっと屋根裏部屋の扉を押し開ける。

 この部屋に限らず、こんな安アパルトメントの扉に、鍵などついてはいないのだ。


 四畳半ほどの手狭な部屋。

 天井は思い切り身を屈めなければ、立っていることもできない低さだ。

 家具の類は一切なく、カバンやコップは壁の釘に引っ掛けられている。

 そして、部屋の片隅には、布の切れ端や古着を寄せ集めて作ったベッド。


(チッ、寝間着は持ってんのかよ……)


 カルロは小さく舌打ちする。 

 ベッドには、チュニカと呼ばれる貫頭衣かんとういを身に着け、横たわる人影があった。

 暗くてよく見えないが、丸まった背中に纏わりつく長い黒髪は、キアナのものだろう。

 太ももまでめくれたチュニカの裾から、しなやかな脚が伸びている。

 カルロは思わず、生唾を飲み込んだ。


 足元には、空になったエール酒の瓶。

 部屋の中は、アルコール特有のむっとする臭気が充満している。

 

(あのガキは……あそこか)


 東洋風の装束を着た人影が、壁にもたれて眠っていた。

 小さく、長い寝息の間隔。熟睡しているのは確実だろう。


 そのことを確認してから、カルロはベッドの人影へと覆い被さる。

 かねてから目をつけていた少女の、美しい容姿が脳裏に浮かんだ。

 物憂げな切れ長の目。

 貴族のように滑らかな白い肌。

 すらっとした優美な手足。

 もう少し全体的に――特にある部位の肉付きがよければ文句なしだが、贅沢は言うまい。


 これらがもうすぐ自分のものになると思うと、カルロの興奮は最高潮に達した。


「へへへ……楽しもうぜ、キアナちゃんよ……」


 カルロは舌なめずりしながら、ゆっくりと目の前の人物の口元へ手を伸ばした。

 と、その手がパシッとなにかに掴まれた。


 ◆


「?」


 声を上げる暇さえなかった。

 肩と腕を猛烈に捻り上げられ、たまらず倒れ伏すカルロ。

 その背中に、何者かがどっしりとのしかかり、強く肺を圧迫してくる。

 気づいたときには、逆に彼自身がベッドに組み伏せられていた。


「な……!」


「女性を酔わせて襲うなんて、男の風上にも置けない人ですね、全く」


「だ、誰だテメエ!?」


「先ほど名乗らせていただきましたが、アラヤです」


 アラヤは、体格の近いキアナなら、服を交換するだけで入れ替わるのは容易と踏んだのだ。

 おまけに、明かりもろくにない暗がりで、服装は身体の起伏を隠せるゆったりしたチュニカ。

 よほど注意深くなければ、見破るのは困難だろう。


「キアナさんなら、そちらにいますよ」


 精一杯首をねじって背後を見ると、そこには嫌悪感むき出しに眉をしかめたキアナが立っていた。

 キアナは吐き捨てるように言った。


「……あなたなんかと口も利きたくありません。朝になったら兵士に突き出しますので」


「ま、待ってくれ! 違うんだって、これは……!」


「何が違うんですか?」


「それは……その……お、俺はもう二回盗みで捕まってる! 次捕まったら死ぬまで鉱山にぶち込まれる!」


 クラリオンでは、たとえ軽犯罪でも三度逮捕されると、終身刑が確定する。

 文字通り、使い捨ての労働力として酷使され、死んでも墓さえ作ってもらえない。

 死後の名誉を重視するクラリオン人にとって、これは最大級の屈辱だった。

 しかし、キアナは眉一つ動かさず言い放つ。

 

「悪いことをしたんだから当然の報いでしょう」


「うっ……お、お前は何とも思わないのか!? たかが盗みと未遂の強姦くらいで人生終わるなんておかしいだろ! なあ!」


「あなたって人は……」


「大体、いつも俺に色目使ってきやがったくせに、いざこっちがその気になったら兵士に突き出すなんて、そりゃねえだろ! 俺の気持ちをもてあそびやがって! このクソばい――いでででで!」


「もう何も喋らなくて結構ですよ、カルロさん。聞くに堪えません」


 呆れたように言いながら、カルロの腕をねじりあげるアラヤ。

 

「ろくな仕事もせず、志も持たず、昼間からプラプラしているから余計なことを考えるのです。どこの鉱山に行くかは知りませんが、せめて必死に働いて、そこで誰かに認めてもらえるよう、汗水垂らして頑張ることですね」


「え――偉そうなこと吹いてんじゃねーぞクソガキが! テメエなんかに何が分かるってんだよ!」


「ええ、私は未だ至らぬ身です。しかし、この国で生きる以上、この国の法律に従って生きなければならないことくらいは分かりますよ。それが社会に属する人間としての、最低限の義務です」


「クソがっ!」


 ゴキッ!


 突然、カルロの肩が外れ、アラヤの拘束から逃れた。

 そして、渾身の力で上体を跳ね上げる。

 体重差はいかんともできず、アラヤはカルロの上から飛び退いた。


「ははは! テメエみてえなガキに、俺をどうこうできると思ったか? 経験が違うんだよ、経験が!」


 外れた肩をはめ直し、カルロはゴキゴキと指を鳴らした。


「さあて。この俺に舐めた真似しやがった報い、たっぷり受けてもらうぜ。二度と出歩けねえようなツラにしてやる……!」


「……はあ。本当に未熟ですね。情けない。恥じ入るばかりです」


「あ?」


「いえ、ただの独り言です。しかしカルロさん、あなたにも言いたいことがあります」


「何だ? 言っとくが女は見逃せなんてのは聞かねえぞ」


「手を頭の後ろで組んで、朝まで床に伏せていてください。そうすればこれ以上手は出しません」


「はあ? 何言ってんだ、テメエ?」


 余裕しゃくしゃく。

 すっかり勝った気でいるカルロに、アラヤは冷たい目で告げる。


「お身体は大事にされた方がいいですよ――これから長いお勤め﹅﹅﹅が始まるわけですから」


「……ぶっ殺す!」

 

 いきり立ったカルロが、アラヤめがけて殴りかかる。

 思い切り右拳を振りかぶったまま、不格好に踏み込んだ。

『今から顔を殴ります』と言わんばかりの、分かりやすすぎる予備動作。

 テオドラが大人の肉食獣なら、カルロは生まれたての子犬だ。

 キアナの目にも、両者の違いは歴然だった。


 アラヤは素早く懐に飛び込み、伸び切った右腕をかいくぐる。

 そして、がら空きの顎に稲妻のようなフックを叩きこんだ。

 

「っ……」


「あなたはちょっと、救いようがないですね。申し訳ない」


 糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちるカルロ。

 動いた拍子に、ふわっと広がったチュニカの裾を抑えながら、アラヤは鼻息を吐いた。


「……やはり、ちゃんと縄で縛っておくべきでした。私の体重では、大した重石にもならないというのに」


「お見事です、師匠」


「よしてください。あれだけしっかり極めていたのに逃げられた時点で、お話になりません。ましてや弟子のキアナさんの前で……」


 真っ暗だった空は、いつの間にか瑠璃色るりいろに変わっていた。

 東の方など、すでに淡黄色の朝日が登り始めている。

 アラヤは殴った右拳をさすりながら、ため息をついた。


「殴打が本当に下手ですね、私は。たった一発で痛めてしまいました」


「え? テオドラ先生のかかと落としじゃ何ともなかったのに?」


「さっきは『剛体ごうたい』……身体強化を使っていなかったんですよ。カルロさん相手だと死なせてしまうので」


「な、なるほど……」


 事もなげに言うアラヤに、少し背筋が寒くなった。

 じょじょに辺りが明るくなり、小汚い部屋を照らし始める。

 自分のチュニカを着たアラヤを改めて見て、キアナはジト目になった。


「……何でそんなに似合ってるわけ?」


「じ、自分で着せておいてその言い草はないでしょう! あとこの紐のせいですよ。必要ないと言ったのに、キアナさんがどうしてもと言うから……!」


 珍しく顔を赤らめ、早口に抗議するアラヤ。

 チュニカを着るときは、くびれのあたりを紐で縛るのが洒落た着こなしとされている。

 そうすることで、だぼっとしたシルエットを引き締め、女性的なラインを作ることができるのだ。


 面白がって詰め物までさせたのだが、それはさすがに取り除かれてしまっている。

 キアナはぶすっとしながら、アラヤの腰回りをまさぐった。


「何これ? 腰細すぎじゃない? 私より細いってどういうこと?」


「そう言われましても……」


「おまけに何この顔は。まつげ長っ。めちゃくちゃくっきり二重だし。なんか腹立ってきた」


「一応気にしてるんですよ。私だって、もっと男らしくなりたかった・・・・・・です」


(……なりたかった?)


 違和感のある表現に首をかしげる。

 そのとき、窓から曙光しょこうが差し込み、キアナは手を顔の前にかざした。

 

「――――」


 あまりの美しさに息を呑む。

 朝の日差しを背後にしたアラヤが、長い髪を手ぐしで整える。

 その姿が、恐ろしいほど神々しく思えたのだ。


(なんか、神様に愛されてるって感じ)


 そんな感想が正鵠せいこくを射ていると知るのは、もう少し先の話だった。


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