第13話『強襲』
「キアナさん。そろそろ引き上げましょうか」
アラヤがそう声をかけてきたのは、図書館閉館の三十分ほど前だった。
敷地内に併設されている図書館には、初学者向けの教本から、魔法研究の専門家用の学術書まで、ありとあらゆる蔵書が収められている。
広さこそ控えめだが、その分無駄に歩き回る必要がないとも言える。
アラヤたちのほかに、学生の利用者は数える程度。
学外の人間と思しき、宗教家や軍人の姿もちらほら見られる。
本は貴重品のため、図書館の利用が許されているのは、一部の特権階級のみだ。
そのため一般市民は、一度も本を読まずに一生を終えることも珍しくない。
キアナは今日の復習と、明日の課題のために広げていた教科書類をまとめて立ち上がった。
「キアナ・エルマン。退出します」
入退場の際には、こうして入り口横のカウンターにいる司書に一声かけるのが規則となっている。
そうでないと、書庫の奥深くに隠れ、閉館後に悪さを働く輩が出る可能性があるからだ。
「…………」
キアナの声かけと、学生証代わりのメダルの提示に、膝上の本に没頭していた司書の少女はわずかに顔を上げた。
肩より少し上で切りそろえた、青みがかった黒髪。
世間と自身を隔絶するように、前髪は眉よりも長く伸ばしている。
ヘッドホンにも見える黒い耳あては、耳栓代わりだろうか。
「…………ん」
吐息にも咳払いにも聞こえる音を漏らすと、少女はまた紙面に目を落としてしまった。
彼女が読んでいるのは、黒い革表紙の
純粋に興味を持ったキアナは、気まぐれに尋ねてみた。
「……何読んでるの?」
「……本以外の、何に見える?」
キアナは努めて平静に問いを続けた。
「……何の本?」
「難しい本」
「あ、そう」
(完全に馬鹿にされてるわねこれは)
ピクピクと頬を引きつらせながら、キアナは何とか返事をした。
彼女なりの『読書中に話しかけるな』という言外の抗議なのだろうか。
バカバカしくなったキアナは、会話を切り上げて退出することにした。
アラヤも彼女にならい、名前を告げてから図書館を出ようとする。
すると、司書の少女は驚いたようにぱっと顔を上げた。
「……あなた、何者?」
「私ですか? アラヤ・ベルマンですよ。昨日付けで学院に入学しました。メダルも持っていますよ、ほら」
「そうじゃない。どこから来たの?」
「……東方の小国からですが、それが何か?」
いぶかしげに小首を傾げるアラヤを、じっと見つめる少女。
やがて、何事もなかったかのように椅子に座り直した。
「何だか、変わった音がする。聞いたことがない音」
「音ですか?」
「心音。普通の人と違う。どういうこと?」
「そう言われましても、特に心当たりがないのですが」
「……そう」
それっきり、少女は黙りこくってしまった。
キアナはアラヤに目配せして、今度こそ図書館を出た。
「あの子、変わってるでしょ? 私、毎日ここに来てるのに名前も教えてくれないの。たまにああして話しかけてみるんだけど、いつもあの調子」
「彼女はここの学生なんですか?」
「一応ね。でもアンタと同じ特待生で、しかも講義に出席しなくても単位がもらえるんだって」
「? 講義に出ないのでは、何のためにこの学院に?」
「さあ。読みたい本でもあったんじゃないの?」
十メートル間隔で灯されたランプを頼りに、石畳の歩道を歩いて校門へ。
正門は閉まっているため、通用口を開けて街道に出る。
時刻は夜の九時。
足元が見える程度の仄暗い街頭のほかは、街に明かりは一切ない。
朝方の喧騒が嘘のように、往来には人っ子一人いなかった。
クラリオンでは、大抵の店は夕暮れとともに閉まってしまうので、そもそも外出する理由がないのだ。
宴会や夜会に出席する貴族は別だが、住んでいる地区が違うので見かけることもない。
キアナの家よりは多少まともなアパルトメントの通りを、キアナたちは黙々と進んでいく。
「こっち、近道だから通っていきましょう」
ある路地の一角で、キアナは表通りから脇道へ入っていった。
誰にも処理されないゴミが詰め込まれた木箱。
汚れた古着や、食べかけの果物がそこら中に転がり、
明かりは夜空に瞬く星だけが頼り。
だが。それさえも今夜はどんよりとした黒雲に遮られてしまっていた。
靴底が路面を叩く音が、五メートル先も見通せない暗闇に吸い込まれていく。
武装した大の男でも、好き好んで使いたくはないだろう不気味な道だった。
「いつもこんなところを通っているんですか?」
「通るわけないじゃない。危ないし」
「なら、なぜ今日はここを?」
「アラヤがいるから大丈夫かなって。ここ通るかどうかでかなり違うんだからさ。これから私をほっといて先に帰ったりしないでよね」
「そういうことなら、ちゃんと待っていることにしますよ」
キアナの半歩後ろを歩いていたアラヤが、不意に前に進み出る。
行く手を阻まれた形になったキアナは、不審げに眉をしかめた。
「どうかし――」
キアナの言葉尻をかき消すように、耳を
硬質な金属同士が、高速で激突したような不快な音。
振り向けば、そこには石畳から
「……え、何?」
彼女の問いに答えたのは、数秒遅れて石畳に突き刺さった、一振りの剣だった。
返り血のようなどす黒い錆びに覆われ、ひどく刃こぼれした刀身。
どこからか飛来したあの剣を、アラヤの槍が間一髪で防いだのだ。
状況を理解した瞬間、キアナはぞわりと鳥肌が立つのを感じた。
混乱のあまり、不明瞭な台詞が彼女の口からほとばしる。
「嘘、夜盗か何か? 何で? 何が起こったの? 誰がやったの?」
「落ち着いてください。その場にしゃがんで、動かないで。あなたは私が守ります」
対称的に、普段以上に落ち着いた声音で話すアラヤ。
その目が見据えるのは、見通せぬ暗闇の只中だ。
普段とはかけ離れた、厳しい戦士の眼光に、ついキアナの胸が高鳴った。
「平野ならともかく、街中であんな長い得物を持ち歩く夜盗はいません。それに飛び方もおかしかった。あの剣は私の後頭部目掛けて、真っ直ぐに飛んできていた。普通に投げたら絶対にそんな挙動にはならない」
「そ、それってどういうこと?」
「ただの夜盗ではない、ということくらいですかね。今のところは」
今度は頭上だった。
音もなく降ってきたのは、処刑用のギロチンのような幅広の刃。
槍で弾くには、あまりに質量差がありすぎる。
とっさにキアナを抱きかかえ、飛び退いた先には、三方向から殺到する短剣が。
しかし、アラヤは瞬時に手元に召喚した宝槍でそれらを一閃。
石畳にめり込むギロチンと、辺りに散らばる血みどろの短剣。
「シッ!」
今度はアラヤが打って出る。
投げ槍の要領で、手にした槍を闇の中へ投擲したのだ。
暗雲の切れ間から差し込んだ陽光のような、鮮烈な一刺し。
ブン! と空気を震わせながら疾走した槍が、建物の壁に深々と突き立った。
尋常ならざる膂力、そして積み重ねた鍛錬が可能とする技。
だが、それは同時に攻撃が空振りしたことの証左でもある。
「――驚いたな。思いの外よく凌ぐ。やはり、ただの子供ではなさそうだ」
「どうでしょうね。偶然かもしれませんよ?」
腐臭漂う路地裏の陰鬱さに、拍車をかけるようなしゃがれ声。
闇から浮き出るように現れたのは、漆黒の僧衣に身を包んだ神父だった。
ざんばらな
鼻から下に赤い布を巻いた年齢不詳の容貌。
幽鬼を思わせる長身の痩躯。
しかし、虚弱な印象は微塵もなく、むしろ研ぎ澄ませた刃物のような不穏な気配を発している。
剣が一本にギロチンが一丁。さらに短刀が一本。
明らかに、人間が暗器として持ち運べる上限を超えている。
すなわち、武装の具現化――『召喚術』によるもの。
そして、それを実戦で用いられる次元にまで高めている。
よって、目の前の神父は、学生レベルを遥かに上回る、高度な魔法の使い手だとキアナは確信した。
ある程度以下のレベルでは、炎や氷といった自然現象を具現化する方が、圧倒的に難易度は低く、実用性も高い。
なぜなら、ただのナイフや包丁を具現化するくらいなら、実物を持ち歩いた方が手っ取り早いからだ。
また、召喚術は、習得までに多大な苦痛を伴う。
製造に手間がかかるものほど、より精密なイメージが要求されるからだ。
刃物で斬られる痛みを、その身で十分に理解しなければ、強度や切れ味に大きな劣化が生じてしまう。
その点、自然現象ならば、組成や仕組みを理解するだけで、さほど苦労せずに実用的な魔法を発現できる。
もっとも、相手を殺傷できるほどの威力を持たせるには、それなりに痛い思いをする羽目になるのだが。
険しい目つきでアラヤが問いただす。
「あなたは何者ですか」
「ただの使い走りだ。名乗るほどの者でもない」
自嘲げにそうつぶやいたかと思うと、やおら神父は右の手のひらをアラヤへ向けた。
ボロボロの赤い包帯が巻き付いた、痛々しい手だ。
「『
目にも留まらぬ速度で、手のひらから短刀が射出された。
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