36話『大聖者の覚醒』
アラヤが握っているのは、宝槍でも盾でもない。
一振りの
日輪のような
王が戦場で振るうにふさわしい勇壮な意匠。
けれど、今のキアナには、どうしてかそれが空恐ろしく感じられた。
「ありえないのであります! 我が『
「何事にも例外はあります。あの槍、見たところ何かの伝承を再現した武装のようですが、私のような人間を殺せなかった逸話があったのでは?」
ロンギヌス。
それはかつて、一人の男を殺し、伝説となった槍の名。
助からぬはずの病人を癒やし、飢えた民草の空腹を満たした男は『神の化身』と敬われた。
ただの手品や小細工によるものではない、本物の奇跡――魔法を操る男のもとには、やがて数万人近い信徒が集い、一大勢力を築き上げた。
当時の人口分布からすれば、一国にも匹敵する大集団だ。
それを疎ましく思ったのが、当時の星黎教『狂信』の聖者ロンギヌス・カルヴァンである。
でっちあげの罪を着せ、男を聖なる丘へ磔にしたロンギヌスは、自らと同じ銘を冠する概念武装をもって、処刑を執行した。
四度の刺突により、男は完全に絶命。
こうして、神と崇められ、数多の信仰をその身に宿した男を殺害したことにより『ロンギヌス』は神殺しの武器としての伝承を確立した。
このように、自らの魔法と過去の逸話を重ね合わせることで『
すなわち、『神の化身』殺害の逸話を念頭に置いた槍を召喚し、ロンギヌスと名付けるだけで、その武装は神をも死に至らしめる特効を得ることとなるのだ。
強力な回復魔法を扱うアラヤを仕留めるには、この槍を用いるよりほかないというヘルムートの戦術的判断は完璧だった。
だが――ヘルムートでさえ預かり知らぬ、歴史の闇に葬られた事実があった。
ロンギヌスによって処刑された男は、確かに一度死んだ。
しかし、その死から三日後に復活を遂げ、大勢の信徒に見守られながら天に昇ったとされている。
所詮は負け犬の空想と、記録を読んだヘルムートは鼻で笑い飛ばしたのだが、そうではなかった。
男は単なる卓越した魔法使いではなく、アラヤと同じ神の寵愛を受けし『使徒』だったのだ。
その生涯をもって神を愉しませた彼は、死後の願いとして『天界への招待』を希望した。
実際に蘇生したわけではないが、男の信徒は間違いなく、彼が死から蘇ったさまを見届けたのだ。
よって、ここに矛盾が生じた。
『ロンギヌス』と名付けられた概念武装は、神さえ殺す効力を持ちながら、使徒は殺せない。
厳密には、殺したあとで復活させてしまう。
伝承憑依の欠点はここにある。
たとえ使用者が把握していなかろうと、伝承が内包する要素を全て再現してしまうのだ。
「……ありえない。ありえないありえないありえない! 我が信仰の結晶が、
激昂のあまり、唾を飛ばしながらヘルムートが喚き散らす。
豹変とも呼ぶべき
まるで大根役者の三文芝居を眺めているように、どこか冷めたような目つきをしている。
よく見れば、顔つきが微妙に鋭くなり、背丈もわずかながらに伸びているような印象だ。
その佇まいに、キアナは違和感を覚えた。
「正さなければ。そのような異常は承服できない。我が槍の敗北は我が
『
血を吐くような詠唱が、咎人を
猛獣のごとく飛びかかり、上空から白釘を投げ下ろすヘルムート。
あまりの速度に大気が燃える。
再生するのを前提に、筋の断裂さえ
橙色の残光をたなびかせる白釘は、あらゆる生命を撃ち滅ぼす
無詠唱の盾では防げない。
詠唱を行えば、致命的な隙ができる。
だが、アラヤの次の行動は、ヘルムートの目算を完全に凌駕していた。
剣で軽く薙ぎ払っただけで、白釘が粉々に砕け散ったのだ。
『
それは、敵との対話を捨て、ただ己の正義だけを貫こうと決めた少年の、悲壮な決意の象徴。
邪を祓う宝槍、鉄壁の盾の使用が不可能となる代わりに、概念武装に対する特効を得る。
詠唱強化済みの概念武装が、無詠唱の武装に敗れ去るという不条理に呆然とするヘルムート。
そこへ、アラヤが皮肉げに吐き捨てる。
「やめましょうよ。どっちが正しいとか間違っているとか――まったく下らない」
膝と爪先だけを使った踏み切りで、アラヤの身体が四メートル近く跳び上がる。
準備体操のような軽い身の捻りから繰り出されたのは、臓腑を潰すような猛烈な蹴り。
とっさにガードを固めたヘルムートは、サッカーボールのように地面に叩きつけられ、古城の壁に激突した。
「あなたの言う通り、誰も傷つけずに誰かを守ろうだなんて理想は机上の空論です。ですが、そもそも、理想や正義の正しさを主張すること自体に意味がない。結局のところ、自分が信じるモノを、相手に強制する力が強いか弱いかという話に行き着きますからね。口で何を言おうが関係ありません。
暴論とさえ言える理屈に、キアナは言葉を失う。
違う。自分の知っているアラヤは、こんな人間ではない。
こんな人間ではないと――そう思っていたはずなのに。
なぜだか、これもまたアラヤという人間の一側面だとすんなり理解できた。
かつての忠臣ルドラを処刑し、王国に仇なすもの全てを排除すると決めた頃の、苛烈な為政者としてのアラヤだ。
それは、ロンギヌスの隠された伝承がもたらしたもの。
刺した対象が使徒であった場合、刺された者は神に与えられた力を受け入れ、己の在り方を捻じ曲げてしまう。
他者を尊重し、その信念をも愛したアラヤは、すっかり鳴りを潜めていた。
「ぐっ……! 証明してみせるのであります、私の正しさを。私が捧げてきたものの尊さを――!」
「ええ、その方が分かりやすい。そうあるべきです、何事もね」
そして、最後の戦いが始まった。
矢継ぎ早に白釘を投擲しながら、ヘルムートが中庭を縦横無尽に駆け巡る。
古城の外壁、城壁の内側、樹木、尖塔。
踏み台になるものは全て利用し、全方位から暴風雨のごとき乱打を浴びせながら、アラヤの隙を作り出そうと試みる。
正面から攻めるのは無謀。
しかし、キアナに受けた傷があるために、長期戦も不利。
また、同様の理由から撤退も困難。
ヘルムートの選択は、そうした判断によるもの。
対するアラヤは、数発いなした後で、積極的にヘルムートを叩きに行った。
コンマ数秒にも満たないうちに数十メートルを移動する彼女に、ほとんど間を空けずに追走する。
もとより速度は互角。ヘルムートが負傷している以上、アラヤが本気で追いすがれば、いずれ追いつかれるのは道理。
「くっ……!」
少しづつ距離を詰めてくるアラヤに牽制を放つヘルムート。
だが、そんな苦し紛れの攻撃など、有効打になりようもない。
「その程度なんですか、あなたの信仰は? あんがい大したことがありませんね!」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ――! 主の教えは私の全てだ! どこの誰にも、決して否定などさせない――!」
アラヤの挑発にヘルムートが怒り狂う。
城壁を陥没させるほどの踏み込みで、進行方向の真逆。アラヤから逃げるのをやめ、立ち向かう形をとった。
そして、召喚した白釘を思い切り投げつける。
ただし、投げたのはキアナの方へだ。
人智を超えた攻防に、まったくついてこれていないのだろう。
『反鏡天・倍増悪』を発動してはいるものの、キアナが見ているのはまるっきり明後日の方向だ。
アラヤの視線が、ごくわずかに彼女の方へ向けられる。
彼女を庇うか、それとも見捨てるかで迷っているのだろう。
それを見て、ヘルムートが愉悦に顔を歪めた。
「理想に溺れて死ね、邪教徒――!」
悪罵とともに伸長させた白釘を構え、槍のごとく突き出すヘルムート。
しかし、アラヤはキアナを助けになど行かなかった。
「『
それは、一度彼女を殺した撃滅手が用いた武装。
その効果は――狙った対象を自動で追尾し、照準を補正すること。
正確な狙いはつけられずとも、大まかな位置さえ分かれば、あとは短剣が勝手に当たってくれる。
二人の動きを、刺客ではなく聴覚で捉えるべく、あえてキアナはきょろきょろと辺りを見渡したりしなかったのだ。
無論、質量と慣性の差は歴然。
短剣が白釘に打ち勝てる理由など何一つない。
だが、高速度の飛翔物は、わずかな衝撃を与えるだけで安定性を失う。
短剣は瞬時に砕け散ったものの、数度単位で角度がずれた白釘は、キアナの耳元をかすめるだけに留まった。
こめかみが切れ、
しかし、キアナの眼差しは、どこまでも強くヘルムートを睨んでいた。
「そんな女、さっさと倒しちゃいなさい。こっちはアンタに言ってやりたいこと、山ほどあるんだから」
小声のつぶやきがアラヤの耳に届くはずはない。
けれど、彼女の
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