第30話 華佗、曹操のもとへ赴く
「廖化がこうなった以上、わしが代わりに語りを務めねばならんようじゃのう」
「待つのにゃ。それは俺がやりたいのにゃ」
「いえいえ。これは軍師たるわたしの仕事でございましょう」
なんだか枕元でうるさく声がする。
薄っすらと目を開けるが、眩しくて周りがよく見えない。
「……何の話をしてるんですか、師妹」
「おお、生き返ったか。さすがわしの調合した薬じゃのう」
師妹がおれの顔を覗き込んだ。
「どうじゃな。一度死んで、また甦った気分は」
「本当に毒薬だったのかっ!」
「何をいう。あれは一時的に仮死状態になる薬じゃ。呉の連中も、死んだものを更に殺そうとは思わぬだろうからな」
なるほど。確かに兵士たちに殺される寸前だったから、あの薬のおかげで助かったと言えなくもない。
おれは、それから間もなく戻ってきた劉備軍に発見されたらしい。
「だけど、このままおれが生き返らなかったら、どうするつもりだったんですか」
他にもっと穏健な方法だってあっただろう。
「それは心配ないぞ、廖化」
なぜかしんみりとした口調で師妹は言った。そっと目頭を押さえる。
「お主との思い出を胸に、わしは強く生きるだろうからな」
「だれも師妹のことなんか心配してません!」
どんな時でも、師妹は師妹だった。
それよりさっきから前が見えにくいのは何故だろう。
「おおそうか。まだ瞳孔が開ききっておるようじゃのう」
……本当に生き返ったのか、おれ?
師妹はおれを枕に押さえつけると、匙のようなものを取り出した。ちいさな壺から何かを掬っているようだ。
「動くなよ。これを目に入れれば、たぶん元に戻ると思うからの」
たらり、と液体が目のなかに流し込まれた。やはり強烈な異臭が漂う。
「ぎゃ」
し、沁みる。
☆
「われらが蜀に向かえば、必ず皇帝とその取り巻きが攻めて来るのは分かっておりました」
ようやく、ちゃんと目が見えるようになったおれは、孔明から事情を聞いていた。
「皇帝陛下は劉備さまに無理難題を押し付けようとしていたのです。どうやって断ろうかと思案していたところなんですよ」
もはや献帝は、どの陣営からも厄介者扱いされているようだ。
「おれが勅使を追い払ったから、戦になった訳ではないんですね」
「いずれ、こうなっていたでしょう」
孔明は笑顔で頷いた。
「すべて、わたしの想定通りでした。あの火炎放射器も、そのために蓮理さんに取り付けてもらったものですからね」
そこまで言われると嘘っぽいが。
「兄者が持ち堪えている間におれたちが取って返し、呉軍を逆包囲するつもりだったにゃ。しかし、まさかもう戦が終わっているとは思わなかったにゃ」
さすが兄者なのにゃ。張飛は右足で首のあたりを掻きながら言った。
「では廖化。出発の準備をするのだ」
「は、どこへです?」
「劉備どのと曹操が同盟を結ぶ事になったのでな。その使者と一緒に長安まで行くことにしたのじゃ」
「ほう。でも何をしに行くのです」
「漢中で会った沙蓉を憶えているか、廖化」
沙蓉さんというのは五斗米道の教祖張魯の母親で、華佗の幼なじみだ。年齢は華佗と同じくらいの筈だが、外見は妖艶な美女だ。
彼女は今、曹操のところにいるらしい。
「やつを通して、曹操がわしを招きたいと言って来たのじゃ。まあわしは患者がいると聞けば、どこへでも行く女じゃからのう」
「金持ちの患者に限るでしょ」
言葉は正確に使わなくてはならない。師妹の金持ちを見分ける嗅覚は猟犬並みなのだ。いわゆる金の亡者に近い。
「いやいや、それは違うぞ。金の方がわしを引き寄せるのじゃ」
その割にはいつも貧乏しているが。
☆
「あのー、師妹」
おれたちはひとつの馬で、華佗は鞍の前側に跨っている。おれは顔を近づけると小声で華佗に呼び掛けた。
「本当にあの方が正使なんですかね」
ふうん? 華佗は馬車に目をやった。窓をあけたその中では、ひとりの男がだらしなく寝そべっていた。大あくびをして股間を掻いている。
今回の使者は、曹操と同盟を結ぶという大役の筈だが、あんなので良いのだろうか。
「簡雍どのか。ああ見えて、蜀の都を無血開城させた功労者らしいからのう。弁舌は達者なのではないか」
だが馬車の外まで響くほど盛大に放屁をする簡雍をみて、華佗は顔をしかめた。
「なあ、華佗先生よ」
その簡雍がこちらに気付き、声をかけた。
「なんじゃ」
華佗の返事も相当にとげとげしい。さしもの師妹にも苦手は有るらしかった。
「医術の世界では、人体は一本の管だと云うのではなかったかな」
「まあ、突き詰めていけばそうなるだろう」
口から排泄肛までをそう表現することも出来る。血管や経絡もひとつに繋がっている事を考えればなおさらだ。
「だがおれは、それは違うと思う」
「ほう」
華佗は簡雍の車の横に馬を寄せる。この男からそんな話題が出るとは思わなかったのだ。そういえば意外と哲学的な思考をする男だと聞いた事もある。
それを買われて、劉備の相談役を務めているのだとも。
「人というものはな、華佗先生」
うむうむ、と華佗は耳を傾ける。
「男性器と女性器に手足を付けたものだと、おれは思うのだ」
ぐへへ、と下卑た笑いをうかべた簡雍。
華佗の頬がぴくぴくと震えた。
「思わず聞き入ってしまったではないか。わしの時間を返せ!」
荒い息をつきながら華佗は怒鳴った。
「まったく。わしのような純真無垢な美少女に何を言うのじゃ」
師妹、それは自分で言うことではないから。
おれたち一行はやがて長安の城門の前に立った。
「やっと曹操を切り刻むことができそうじゃ。楽しみじゃのう」
華佗は嬉しそうに、壮大な門を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます