第26話 関羽、師妹の治療を受ける
「わしなら、そんな皇帝など即座に斬り棄ててやるがのう」
華佗は温泉に身体を浸しながら天を仰いだ。夜空には青白く輝く月が浮かんで、その前を薄い雲がゆっくりと流れていた。
そしてそれと同じくらい白い師妹の肢体が湯の中で揺らいで見える。
「まあそうでしょうね」
それを横目で見ながら、おれも頷いた。師妹が思考するのは、いつも行動を起こした後からなのはよく知っている。
兄の孫策を殺された孫権だったが、直截的な報復行動に出る事はしなかった。ただし、献帝の側近は多くが追放され、献帝自身も軟禁状態になっているとは聞く。
呉漢の王朝を構成するのは、漢王朝へ忠誠を誓う者たちと、反曹操を旗印に集まって来た各地の軍閥、そして従来からの江東の豪族たちであり、一枚岩とは程遠い寄せ集め集団と言っていい。名目上とはいえ盟主の献帝を殺害し、弑逆者の汚名を自ら被るのは得策ではないのだろう。
しかしこの献帝については、ろくな噂を聞かない。
いわく官位を金で売買している、臣下の妻を寝取った、曹操の銅雀台をしのぐ宮殿を建造するために重税を課そうとしている、などだ。
「ま、あの男にもまだ利用価値があるという事だろう。お主の、ここのようにな」
そういって師妹はおれの股間に手をのばし、さわさわと撫でる。
「ちょっと。やめて下さい」
本人に断りなく利用しようとするんじゃない。
☆
歩き続け、おれたちはまた中原へ戻って来た。
「なんだ、水浸しではないか」
襄陽の北、
「この先は通れないよ」
街道脇の家から声を掛けられた。老人が扉の隙間から顔をのぞかせている。
「襄陽へ行くのなら、裏山を迂回していくことだ」
「何かあったのか。ここまでの大雨が降ったとは知らなかったが」
老人はぶるぶると首を振った。
「戦だよ。劉豫州さまが洛陽を目指して軍を起こされたのだ。樊城を水攻めにされておるところらしいのだが……」
「水攻めとは悠長な話だな。ここは一気呵成に攻め上るべきではないのかのう」
確かに。曹操が漢中にかかりきりになっている今のうちに洛陽を陥とせば、曹操の巨大な支配地域にクサビを打ち込むことが出来る。
「それが、序盤で関羽将軍が負傷されたらしいのでな。治療するまでの時間稼ぎだとか……」
おれは思わず、関羽にもらった剣に目をやった。
「重傷なんですか、将軍は」
「さあ、わしらには分からんよ」
老人は悲しげに目をふせた。
「ぐふふ」
華佗が変な声を出した。
「師妹、いま笑ってませんでしたか?」
おれが振り返ると、師妹はそしらぬ顔に戻った。
「まさか。これでまた手術ができる、とか思って喜んではいないぞ」
どうだか。
☆
山中の間道を抜けると、やがて劉備軍が布陣しているところに行き当たった。陣門前で兵士に誰何される。
「天下の神医、華佗が関羽将軍の見舞いに来たのじゃ。勝手に通るぞ」
おどおどする兵士相手に傲慢に言い放ち、華佗は中へ入って行く。
陣幕を張り巡らした本陣まで来ると、悄然とした様子の男がうずくまっていた。
「張飛ではないか。関羽はどこじゃ」
華佗の声に張飛は顔をあげた。大きな目の瞳孔がたてに細くなっている。
張飛は手を前に突き、お尻を高くかかげ大きく伸びをした。
「にゃ。華佗どのか。これは失礼した、うっかり昼寝をしておったにゃ」
昼寝と言っている時点で意図的な気もするが。
「おい、華佗先生がいらっしゃったのにゃ!」
陣幕の中に大声をかける。
「なんと、華佗先生とな」
劉備が両手を振り回しながら駆け出してきた。遅れて関羽も姿を現した。
「関羽さま、怪我をなさったと聞きましたが」
おれを見て関羽はにやりと笑った。
「これだ。別に大したことはないぞ」
いや。関羽の左腕は太もも程に腫れ上がっていた。しかも、危険な程どす黒く鬱血している。毒矢を受けたらしい。
「大したことはない、って。全然大丈夫そうには見えません」
顔色も悪い。以前とくらべて朱面の色が薄くなった気がする。
「いいだろう。これより緊急手術を執り行う。廖化、準備じゃ」
嬉々として華佗は命じる。
「さて関羽よ。ここに麻沸散という痛みを感じなくなる薬がある。だが、もちろんお主はこんなものはいらないであろう?」
華佗の挑発に、関羽は余裕たっぷりに笑う。
「もちろんだとも。で、一体どんな手術をするつもりなのだ、華佗どの」
「なに、簡単なことじゃ。そなたの肩口から腕を切り離し、別な腕を縫い付けるのじゃが……」
華佗は平然と答える。
「心配するな。どんな太い腕でも、関節部分ならこんな小刀でも切れるのだぞ」
きらり、と剪刀がきらめく。
「まあまあ、華佗どの。別の腕といっても、そう簡単に入手できませんぞ。……腕だけに、入手は。うははは」
何が可笑しいのか、劉備はひとりで笑っている。
「出来れば腕を切り離さない方向で手術してもらえぬであろうか。それにその麻沸散とやらも使ってもらえると……」
すっかり顔色を失くした関羽は、訴えるように華佗の前に膝をついた。
「仕方ない。意外と意気地なしじゃのう。お姉さんもがっかりじゃ」
「師妹、湯が沸きました」
おれは腕組みをして首をふる華佗に呼び掛けた。
「よし、それでは手術開始といくかのう」
華佗は関羽の腕を見て、ぺろりと舌なめずりした。
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