第11話 孔明、襄陽に棲む臥竜

 荊州へ抜ける街道の途中で、曹操と袁紹の最大の決戦『官渡の戦い』の噂が耳に入ってきた。


「なんでも、あの関羽っていう武将が、口からすげえ炎を吐いて、袁紹の大軍を焼き払ったらしいじゃねえか」


「そうとも。おまけに青竜刀を持った腕だけが飛んでいって、敵の大将をぶち殺してまた戻ってきたってんだからな。いやー、強えなー、関羽」


「おうよ。で、関羽がそんなに強いのは理由があるのさ。実は、ある医者が……」


 小さな酒家でおれと華佗が食事をしていると、男が二人、そんな話で盛り上がっていた。周りの連中も話を聞こうと集まっている。


師妹せんせい、あれは本当の話ですかね」

 熱い汁麺を啜りながら、おれは眉をしかめる。

「ふふん。話というのは、人に伝わる度に大きくなっていくものだ。わしも、そこまで改造を施した記憶はないからのう」

 愉しそうに師妹は笑っている。

「だがこれで、わしも更に有名になるという訳だ」


 ともかく曹操は勝利し、袁紹を追って遼東りょうとうまで軍を進めて行ったらしい。

 こうなると孫策の出方が気になる。

 速戦即決を狙い、一気に許都を衝くという計画に変更はないのだろうか。


「主力軍は遠くに行ってしまったから、賭けてみる価値はあるだろうな」

 しかし、許都には満寵まんちょう荀彧じゅんいくと共に残り、その支城は李典りてん程昱ていいくが守備している。


 満寵は許都の令を務め、その厳正な統治が曹操から高く評価された。一方の李典は『春秋左氏伝』などの古典に通じ、学者としての顔を持つ。

 彼らは二人共、文武両道に秀でる名将として知られていた。

 そして荀彧、程昱は当代屈指の智嚢として名高い。


 兵数こそ少ないが、彼らが率いるのは曹操軍の精鋭と言っていい。孫策が手こずるようなら曹操の本隊が戻ってしまうだろう。

 果たしてそれまでに許都を攻略できるか、だが。


「まあ、わしらには関係ない事だ」

 華佗はそう言って、饅頭を白湯で喉に流し込んだ。


 ☆


 荊州の都、襄陽の街並みは人にあふれているが、どこか穏やかな雰囲気を持っている。これは荊州の牧 劉表の治下、平和が続いていることも大きいだろう。

 特に中原の北方では戦乱が絶えず、それを嫌った各地の名門といわれる人々が一族を率いて移住して来ているため、独自の文化が醸成されているようだった。


「だが、こんな時は続きはしないのだ。見るがいい、北方の戦塵がここ荊州に至る日は近いぞ。そうだろう孔明!」

 酔っ払いだろう、大きな声が古ぼけた酒家の店内から響いている。

徐庶じょしょ、お前からも言ってやれ。こんな時勢だからこそ、お前は出仕して世のために働かねばならんのだとっ!」


 おれたちは店内を覗き込んだ。

 ひとりの背の高い男を囲むように、数人の男が酒を飲んでいる。中心にいる男は仙人のような白っぽい服に、妙な形の冠を被り、手には羽根で造った扇を持っていた。控えめに言って、まともではない。


「なんだ、あの変な男は。まあ、あんな危なそうな奴とは、あまり関わり合いにならない方がいいだろうな」

 まったく同感だった。しかし。

「そういう事は、もっと小さな声で言うものです、師妹!」


「いやいや、齢をとると声が大きくなっていかんのう」

 あはは、と笑っている。


「貴様。今の台詞は聞き捨てならん」

 殺気だった男が立ち上がった。端正な容貌だが、どこか世を拗ねた風がある。

「ほら怒られたじゃないですか」


「おい、崔州平さいしゅうへい。見ればまだ子供ではないか。そんなに怒鳴るものではないぞ」

 やや小柄な男が盃を静かに置き、宥める。

「だが徐庶、この餓鬼お子さまは孔明の事を変態だと言ったのだぞ」

「おや、そこまで言うたかのう」

 きっと心の声が伝わったに違いない。


「いいじゃないですか。どうです、あなた達も一緒に食べませんか」

 孔明と呼ばれた男は妖し気な笑みを浮かべ、白羽扇で招いた。


 ☆


 まだ飲み足りないと大騒ぎする崔州平を、他の二人の若者が引きずるようにして店を出て行った。

「頼むぞ。猛健、石韜せきとう。ちゃんと連れて帰ってやってくれ」

 徐庶は三人が出て行くのを見送ると、おれたちに向き直った。


「もしや、あなたは華佗さまではありませんか」

 物腰は柔らかいが、視線には凄味がある。こいつ絶対に裏世界と繋がってるな、おれは確信した。


「ちょっと待て、徐庶。こんな子供が華佗さまの訳がないだろうに」

 諸葛孔明と名乗ったその変態は首をひねった。だが徐庶は薄く笑う。


「よく見ろ孔明。この方の目じりの皺を。これが何よりの証拠だ」

「おお。さすが徐庶。見事な観察力だ」

 たしかに、これは10歳の目じりではない、孔明も納得している。


「余計な観察をするではない。一服盛るぞ、きさまら」

 頬をピクピクと引きつらせ華佗は呻いた。


「それにそちらの少年。確かにわたしは昔、人に言えないような事もしましたが、今ではちゃんと更生してますよ」

 徐庶はおれを見てにっこりと笑う。なぜ、考えた事が分かった?



「以前からお会いしたいと思っておりました、華佗さま。ようこそ襄陽へ」

 孔明は恭しく一礼した。

 これが後の蜀の軍師、諸葛孔明との出会いだった。


 そしてこの後、さらに新たな出会いが待っている。袁紹のもとを脱した劉備が関羽、張飛と合流し荊州を目指しているのだった。

 おれと師妹は、本格的に三国動乱の世に巻き込まれようとしていた。

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