第3話 那由他、薬湯にされる

 陳登 あざなは元龍。徐州の牧 陶謙から最も信頼される側近である。文武に秀で、策略にも長じるという。

 だがその名臣の命も風前の灯に見えた。


「これを見ろ」

 華佗は陳登の夜着をめくった。

 異様に膨れ上がった腹部の皮膚は、内部から人の顔を浮かび上がらせていた。そして、それは何かを訴えるように蠢いている。


「もしや人面瘡じんめんそうか」

 関羽が口元を押え覗き込んだ。

 おれはその声で遠ざかりかけた意識を引き戻す。危うく失神するとこだった。

「これは廖化が言うような、単なるおめでたなどでは無い事がはっきりしたぞ」

「いえ、そう言ったのは師妹せんせいですからね」


 華佗はおれの抗議を無視して陳登の腹を撫で回している。

「ほう、ほう。これはいいぞ」

 なんだか、すごく嬉しそうだ。いまだにこの師妹せんせいの感覚はよく分からない。


「息子は大丈夫なのでしょうか」

 部屋の隅に控えていた老人が声をかける。やって来た名医が、こんな外見年齢10才の少女で不安を覚えたようだ。心の声を代弁するなら、お前で大丈夫なのか、と言いたいところだろう。


「おや、あなたは」

 眉を寄せる華佗に対し、その老人は丁寧に一礼した。

「この陳登の父、陳珪ちんけいでございます」

 徐州の政庁では最も古株といっていいだろう。親子で政治を壟断していると陰口を言われることもあるが、無能な陶謙一派の代わりに実質上徐州を取り仕切っているのがこの二人なのだ。


「もちろん大丈夫じゃとも。すでに治療法はこの頭の中に出来上がっておるからのう。ただ……あとは、これかの」

 そう言って華佗は親指と人差し指で輪をつくり、こそっと陳珪の耳元で何事か囁く。

 陳珪の顔が青ざめたのが分かった。相当な金額を吹っ掛けたのだろう、まったく、無免許医師のくせに酷い女だ。


「よし交渉成立じゃ。では那由他を借りるぞ。廖化は火を起こして煎じ薬をつくる用意じゃ」

 そう言うと華佗はおれの肩に避難している猫の那由他の首根っこを掴んで部屋の外に出て行った。

「おい、ちょっと待て。師妹! 那由他に何をする気だっ!」

 にゃうー!! 那由他の悲鳴が聞こえた。


 ☆


 間もなく、那由他と師妹は帰ってきた。那由他は勢いよく走り寄るとおれの背中を駆け上がった。

「よしよし、ひどい事をされなかったか」

「にゃう」

 那由他はおれの頬を舐めて、ふわふわの顔をすり寄せる。


 あちこち引っ掻き傷だらけになった華佗は、怪し気なものが入った小鍋を持っている。それに水を差し、火の熾ったコンロにかけた。

「く、臭いぞ。なんだこれは」

 その途端すごい異臭が部屋中に漂い始め、関羽が鼻を押えて呻いた。


「良薬、鼻に臭しと言うであろう。心配するな、素人めが」

「やはり、この匂いに薬効があるんですね、師妹」

 だんだんと関羽の表情が殺気を帯びて来たので、あわててその場を取り繕う。


「はぁ。何を言っているのだ廖化」

 あー、嫌な予感がする。


「飲ませるに決まっているだろう。煎じ薬だと言ったはずだぞ」

「毒じゃないですか、この匂いは。普通、死にますよ。健康な人だってこんなもの飲んだら死にますから!」

 陳珪さんの顔色がこれ以上ないくらいに青くなっている。


「おいおい、廖化。この陳登どのは死にかけているのだぞ」

 肩をすくめる華佗。いや、だからって、何を飲ませてもいい訳ではないだろう。


「勘違いするな。非常時には普通の薬では効かない、と言っているのだ」

 この乱世にも劇薬のような者が必要なのだろうがな。華佗は呟きながら、出来上がったどす黒い液体を片口の器に移した。


 顔を近づけると、立ち上る湯気で目がチカチカする。これは湯気ではない、もはや 瓦斯ガスだ。

 陳登の頭を支えるようにして、その片口で陳登に飲ませる。


 思ったとおり、一口飲んだだけで陳登は全身に痙攣を起こし始めた。

「押えろ、関羽」

 華佗の指示で関羽は陳登の身体を押さえつける。おれも陳登の頭を抱えたまま、強引にその毒薬、いや煎じ薬を流し込む。


 すべて飲ませ終わると、陳登は動かなくなった。

「だ、大丈夫なのか、師妹」

 見ると、華佗は荷物をまとめて逃げ出す支度をしている。

「おい」


 やがて、陳登は喉の奥でゴボゴボと音をたてはじめた。

「おう、効き始めたぞ。洗面器を用意しておけ、いや、樽のようなものがよいな」

 陳登の腹の皮膚が不気味にうねり始めた。腹部に浮かんだ人の顔が、まるで苦悶しているように見える。


 ぐええ、と陳登が大きくえづく。

 陳登の大きく開いた口の中から、おれが手にした桶に白く細長い物が落ちた。それは樽の底でうねうね動いている。

「おうええええっ」

 続けざまに、大量の白い寄生虫が桶を満たすほど……


  (以下、自粛)


「ほれ。これでもう大丈夫じゃ」

 華佗が莞爾とした笑みを浮かべた。

 たしかに陳登の腹部は元通り平らになっている。華佗の調合した虫下しの薬の効果にちがいない。

 大量の寄生虫を吐いた陳登は、いまは穏やかに眠っている。


 関羽と陳珪は部屋の窓を開け、籠った激烈な悪臭を追い出しにかかっている。おれは華佗師妹に耳打ちした。

「あの薬の材料は何ですか。那由他を連れて行きましたが」

「おお。大したものではないぞ。こいつのヒゲを二本と、糞を少々な。あとは虫下しに薬効のある木の皮などを適当に配合してのう」

 聞かなきゃ良かった。


 ☆


「よいか、陳登どの。今回の寄生虫はただの偶然などではない」

 寝台に起き上がった陳登に向かい、華佗は厳しい表情を向けた。

「はい。それは心当たりがあります」

 いっそ涼やかな表情で陳登は頷いた。相当に肝の据わった漢だ。


「そうか。覚悟はできておるのだな」

 なら、これ以上言う事はない。華佗は黙って陳登の屋敷を辞した。


 あれは『蟲毒』だよ、華佗は訝し気な顔のおれに言った。


「徐州はいま、分裂の危機にあるらしいからのう」

 誰かが、現在の執権ともいうべき陳登を亡きものにしようと図ったのは間違いなかった。もちろんそれが誰かは、華佗にも分からないが。


 陶謙がその求心力を失ったいま、徐州の旧臣たちは新たな盟主を求めている。それは劉備であり、呂布であった。いっそ曹操と結ぼうとする勢力もある程だ。


「またこんな事件が起きるだろうな。遅くとも三年以内にはな」

 その時、わしが近くに居ればよいが。華佗は少し寂し気に呟いた。


「では、貰うものは頂いた。今度は南へ向かってみようかのう」

 おれの背中の荷物は一段と重くなっていた。謝礼金は殆どが薬草や鍼などの医療道具に変わっている。おれは小さくため息をついた。

 これでは、また貧乏道中だ。


 ☆


 その後、徐州は劉備、呂布とその主を変え、最終的には陳登の奔走により曹操の傘下に入る事になった。


 そして華佗の予言通り、陳登は数年後、動乱のなか同じ症状でこの世を去った。


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