第16話 襄陽陥落。そして長坂坡へ
諸葛謹は頭を抱えていた。
皇帝の勅使として建業を出た彼は、襄陽の想像以上の混乱によって劉表との面会すら果たせずにいる。
「どうやら弟の劉琮が本命らしいが……」
荊州の有力な家臣はほぼ、この劉琮を推している。
しかし困った事に、なぜか劉備は兄の劉琦の後ろ盾になっているのだ。どうやら劉琦に直々に泣き付かれ、断る事が出来なかったらしい。
「人が良いのにも程がある。なぜこんな時にお家騒動に巻き込まれているのだ」
諸葛謹は地団太を踏みたい思いだった。
「劉備どのにまともな参謀がいれば、こんな荊州など……」
もっと話が簡単に終わっていただろう。
諸葛謹は、荊州を掌握した劉備と交渉すればよかった筈なのだ。
このまま襄陽に滞在しても時間の無駄と判断した諸葛謹は、その足を襄陽の北、新野に向けた。
☆
「ああ、これはどうも。こんなむさ苦しい所へようこそおいで下さいました」
劉備は揉み手をしながら、諸葛謹を迎えた。
「皇帝陛下の勅使であられるとか。さあさあ、上座へ」
諸葛謹は劉備がすすめる古い椅子へ腰かけた。その途端、何かが折れるような音がして椅子は左に傾いた。
「ところで、劉備どの」
諸葛謹は左足で踏ん張りながら、皇帝からの親書を読み上げる。
「と、いう事で曹操の軍を迎え撃ってもらいたいのです」
「おろろーん」
劉備はまた滂沱の涙を流し始めた。
「この劉備にそのようなご期待を寄せていただくとは、感激にございます」
なぜだろう、涙が墨を混ぜたように黒い。
「必ずや逆賊、曹操を討ち果たしてご覧にいれますともっ!」
おお。遠いとはいえ、さすが宗族。漢王朝に対する忠誠心は他姓のものの比ではない。諸葛謹は心を震わせた。
(陛下、漢王朝の復権は近こうございますぞ)
「うるせいのう、なにを騒いどんのじゃ」
部屋の隅に置かれた長椅子から男が起き上がった。はだけた服の裾から手を入れ、股間を掻いている。
「
「ほ、勅使。ふーん、なんだ玄公。お前の客だったのか」
劉備の字は玄徳である。簡雍は劉備の昔からの知り合いだった。
簡雍は無遠慮に諸葛謹の前まで歩み寄った。
「それは。わざわざご苦労なことじゃな」
ふっ、と指先に息を吹きかける。ぱらぱらと白い粉が飛んだ。
「どうせ、お前に皇帝の盾になれと言いに来たのだろう」
簡雍は劉備を振り返り、せせら笑った。
諸葛謹はこの男を見直した。下卑た表情の中に鋭さを秘めている。こんな男を配下にしている劉備も、やはりただ者ではないらしい。
「おーい、兄者。逃げ出す準備はできたのにゃ」
廊下からネコひげの巨漢が顔を出した。
「曹操みたいな奴に敵うはずがないにゃ、とっととずらかるにゃ」
「おう、待て張飛。この皇帝からの使者を適当にあしらってからだ。今度はわしの奥さんたちも、ちゃんと逃がすのだぞ」
「おっと、合点なのにゃ」
「えーと、どこまで話しましたかな」
劉備は温顔を諸葛謹に向けた。
当然、荊州をもって曹操に当たらせるという荀彧の計略は破綻した。
「では、いずれまたお会いしましょう」
諸葛孔明の奥さん、黄連理さんは馬車の上から手を振った。
「さらばじゃ、奥方。お饂飩、美味かったぞ」
華佗は普段に似合わず、顔を涙で濡らしながらその一行を見送った。人込みの中なので、おれが肩車している。
ほとんど家一軒分に匹敵する、怪しげな荷物を積載した荷車がその後に続く。
やがて、その後ろ姿は砂ぼこりに消えた。
「やれやれ、齢をとると涙もろくなって困る」
華佗はおれに背を向け、袖口で顔を拭っている。
曹操軍の来襲を待たず、襄陽からは住民の離散が始まっていた。
それに紛れるように、劉備の軍勢も新野から東の江夏を目指していた。そこには先に劉琦を脱出させ、軍勢を整えさせていたのだ。
☆
曹操軍の総兵力50万と号する大軍が次々に許都を発していった。
大地を埋め尽くさんばかりのその威容は、伝令により時を置かず襄陽まで伝わった。
そして時を同じくして、荊州の牧 劉表もこの世を去った。
もはや、荊州には降伏以外の選択肢は無かった。
押し寄せる曹操軍の前に、襄陽は何の抵抗もせず城門を開いた。
「この襄陽城内にあるものは、すべて丞相のものにございます」
平伏して小声で言う劉琮を、汚い物でも見るような目で見る。
「よかろう。お主らを逆賊、孫策を討つ先鋒に命ずる。奴を討ち滅ぼし、皇帝陛下を許都にお戻しするのだ」
こうして荊州の水軍は闘わずして曹操のものとなった。
☆
ほとんど歩くほどの速度で襄陽を離れていく劉備と、避難民の一団が差し掛かったのは
比較的大きな川にはたった一本の橋が架かっている。
我先に渡ろうとする難民で行軍は停止せざるを得なくなった。
その背後に、曹操率いる騎馬軍団が迫っていた。
「劉備だけは逃がす訳にいかぬ」
世にいう、長坂坡の戦いがここに始まる。
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