第15話 孔明、劉備の帷幕に加わる

「孔明先生。そこはまず、お友達からということで」

 深い仲になるには、もっとよくお互いの事を知ってからの方がいいと思うのだ。

「そうですか。やはり、いきなり軍師はダメですか」

 孔明はあからさまに不満げな顔になった。


「では蓮理さん。この方たちのお茶は白湯に変更で…あ、やはり水でいいです」

「あら」

「水だと?」「貴様!」「なんと無礼なのにゃ!」

 劉備たちは気色ばんで立ち上がった。おれと那由他は慌てて部屋の隅に避難する。


 くすくすと華佗が笑いはじめた。

「まあ落ち着くがいい、劉備よ。そなた、晋の文公が農民に泥団子を貰ったという故事を知っておるか」

「当然でございますとも、華佗先生」

 これでも劉備は一応、学習塾に通っていたのだ。


 それは後に晋の文公となる重耳ちょうじが国を追われ、諸国を放浪していた頃の話である。

 空腹のため農民に食事を請うたところ、侮った農民に泥団子を差し出された。

 当然激怒した重耳だが、これは公子がという天のお告げだと家臣に諫められ、その泥団子を有難く受け取った、というのである。

 そしてその後、重耳は晋国を奪還し、古代中国の春秋時代における覇者となったという、縁起のいい話である。


「それがこの男と何か関係があるのですか」

 もう孔明先生ですらなく、この男呼ばわりになっている。


「水といえば魚。この孔明という男は、魚であるお主に水のように付き従いたいと言っているのだ。これが吉兆でなくて、なんであろう」

「おお、まことに。領地も大事だが、人はもっと大事!」

 劉備の顔が感動に輝いた。

 膝立ちで孔明に擦り寄り、その両手をとる。


「先生の深いお心に気付かず、重ね重ね失礼な事をしてしまいました。ぜひ、わが帷幕に加わって下さい」

 劉備の眼から滂沱の涙があふれている。


 孔明もそれを見て、感動に目を潤ませた。

「もう軍師などと贅沢は申しません。よろしく陣営の片隅にお加えくださいっ」


 劉備は大きく頷いた。

「では諸葛孔明どのを、図書委員として採用しますっ!」

「ははーっ」

 どうやら無事、契約成立したようだ。


「ところで、華佗先生。この涙はどこを押せば止まるのでしたかな」

 小声で劉備が師妹に訊いている。


 忘れたのか、仕方ないのう。と、どこか背中を押す。するとぴたりと涙が止まった。得意のうそ泣きだったようだ。

 しかしどこまで人体改造しているのだろう。今度、その涙の容器に墨でも入れておいてやろうかと思う。


 ☆


 漢の皇帝を迎えた孫策は、本拠地の秣陵まつりょうという地名を建業けんぎょうと改めた。これから天下を再統一するための出発点である。秣(まぐさ)ではそれにふさわしくないと判断したのだ。


 討逆大将軍となった孫策は軍船を建造させると共に、周瑜に命じて長江沿いの都市の要塞化を急いでいる。

 そして今は、これからの方針を決定するための御前会議が行われていた。


「それだけでは足りません」

 戦略面での顧問となった荀彧じゅんいくは、長江を越えて布陣する事を提案した。葬儀に行かせるには丁度いい、と揶揄されたこともある荀彧だったが、その謹厳実直な表情を変えず、壮大な計画を孫策に語っていく。


「長江のような大河は、その両岸を抑えてこそ要害として機能します。まずは北の淮水まで進出すべきです」

 これを現在で言えば制海権ということになるだろう。長江は要害であると共に、重要な補給路でもあるのだ。片岸を抑えられてはその機能が十全に発揮できない。


「そして、これは最も重要な事ですが」

 更に荀彧は切り出した。

「荊州と強固な同盟を結ばねばなりません。ここ揚州を固めても、上流の荊州を崩されては意味がありませんから」


 張昭が声をあげた。

「それは問題ですぞ。荊州の牧 劉表はいま病の床についているとか。後継者もまだ決まっておらぬ様子。その見定めがつくまで手の出しようがない」


 これまで孫策の参謀役はこの張昭が担ってきた。周辺勢力の情勢理解については荀彧に劣るものではない。


「その通りです。ですが逆に言うならば、我らにとって最も都合のよい人物を選ばせる余地があるということです」

「我らが選ばせる、と?」


 劉表には二人の子がある。劉琦と劉琮である。ただ、どちらも英明との噂は聞かない。それどころか、後に曹操から『犬のクソにも劣る』とまで極言されている。


「どちらを選ぶにしても、力不足は否めないだろう。家臣どもも二派に別れてしまっているようだしな」

 孫策も苦り切った表情になった。

「いっそ、俺たちが占拠してしまった方がよくないか」


「そんな兵力はありません!」

 荀彧と張昭が同時に釘をさす。


「もう一人いるではないか」

 その時、静かな声がした。発したのは漢の皇帝 劉協。のちに献帝とよばれる青年だった。董卓に奉り上げられた為とはいえ、幼年より皇帝の座にある男だ。自然と威厳が備わっている。

 孫策たちは揃って頭をさげた。


 だがその言葉は、堂内の誰もが望んでいない男の名前をあげた。

「朕の叔父、劉備どのが荊州に入ったそうだ」


 堂内を沈黙が包んだ。

「領民からは随分と慕われているという。あの曹操とも渡り合ったほどだ、荊州一国を任せることは問題あるまいと思うが」

 弾んだ声の皇帝に掛ける言葉は無かった。


 誰も口にはしなかったが、それは最悪の選択だと知っている。荀彧に至っては、密かに劉備を消そうと考えていた程だ。


「あの方は危険です。それは虎に翼を与える事に他なりません」

 同じことを曹操にも言上したことがあった。


 劉備は皇帝の一族であることを吹聴している。荀彧は劉備に力を与えることに絶対反対だった。簒奪の種をまく事になりかねない。


「危険なのは承知の上だ。だが、それ位でなくては曹操の敵たりえないだろう」

 皇帝は堂内を見渡した。

 それもまた正論には違いなかった。


 皇帝自身がここまで決意したのであれば、荀彧たちもそれ以上反論することは出来なかった。

 孫策は、荊州に向け諸葛謹を派遣することにした。



 そしてその頃、曹操は南征のための軍を許都に集結しつつあった。

 目的地は荊州である。

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