第20話 張飛、曹操軍を撃退する
「あれが関羽の義弟、張飛か。聞きしに勝る豪傑だな」
曹操は目を輝かせた。
隣に立つ
「誰か、あの張飛を無傷で捕らえて来るのだ!」
「絶対に無理ですからっ!」
夏侯惇はすかさず曹操の無茶振りを制止する。
「それに、もうお忘れですか。関羽にも逃げられたじゃないですか」
「だって欲しいんだもん。あれ買っておくれよ、夏侯惇~」
諦めきれない曹操は口を尖らせる。
「子供ですか。早く大人になって下さい」
そこで夏侯惇は失言に気付いた。曹操の顔色が変わり、ぷるぷる震えている。
「貴様、夏侯惇。誰がチビじゃ。首を刎ねるぞ、そこへ直れ」
慌てて周囲の将軍たちが止めにはいる。
「おーい。何をやっているのにゃ。かかって来ないなら、おれは先に帰るのにゃ」
張飛の大声で曹操は本来の目的を思い出した。
「よし。敵は一万人に匹敵するとはいえ、只ひとりぞ。かかれ!」
号令によって曹操軍は動き始めた。
「我が軍は総勢で二千程ですが、宜しいので?」
曹操は振り向いた。夏侯惇が不安げな表情を浮かべている。
「え、それしかおらんのか」
「精鋭だけで急行して来ましたから」
あ、うん。と曹操の眼が泳ぎ始めた。いや、万人の敵とは言葉の綾だし…とか、口の中でモゴモゴと呟いている。
その時、陣中で悲鳴があがった。
張飛に対峙している先陣ではない。後方からだった。
「何事だ!」
曹操の軍勢が最後尾から左右に割れていく。
「これは一体、何の奇跡なのだ」
白馬に跨った武将が、逃げ惑う兵士の中を槍を振るい迫って来る。その白い甲冑は返り血ですでに赤く染まっている。
呆然と目を瞠る曹操の前を、その騎士は駆け抜けていった。
「ま、待て。お前は誰だ」
曹操の声に、騎士は一瞬振り返る。
「常山の趙雲。字は子龍」
爽やかな声で名乗りをあげる。そして怪訝そうに眼を細めた。
「そう云うあなたは、曹操どのとお見受けするが……」
趙雲の身体から静かな殺気が放出された。
しまった、呼び止めるのではなかった。曹操の背筋を冷たいものが走った。夏侯惇が曹操を守るように前に出る。
趙雲は手にした槍に目をやった。それはすでに真ん中から折れて、先端がぶらぶらしている。
ふっ、と息をついた趙雲はそれを投げ捨てた。
「いずれまた、お会いしましょう」
馬首を返し、趙雲は張飛が立ちはだかる長坂橋へ向かった。
「あれも欲しいぞ、夏侯惇~」
「駄目ですってば!」
「阿斗さまは無事か?」
張飛の問いに、趙雲は鎧の胸元を示した。赤ん坊がその中で眠っている。
「大丈夫だ。だが、奥方は……」
趙雲は言葉を詰まらせた。張飛は頷くと後ろの街道を顎で指した。
「早く行け。後はおれに任せるにゃ」
一礼して去る趙雲を見送り、張飛は安堵のため息をついた。
「さて、もうしばらく時間を稼がにゃいとな」
☆
ひとしきり死体の山を築いた張飛は馬を返して橋を戻り、対岸に降り立った。
馬に跨ったまま、器用に右足で首のあたりを掻いている。
「よし、今だ。全軍渡橋し、張飛を囲んで討ち取れ!」
夏侯惇が命令を下す。
「待て、これは罠だぞ、夏侯惇」
額に手をかざし、目を細めた曹操は呻くように言った。
「なんですと、罠?」
「そうだ。やつの背後の森を見ろ。伏兵が潜んでいる気配が有るではないか」
「なるほど、そう言われれば」
夏侯惇も目を凝らしてみると、確かに木の枝や下草が不自然にざわめいている。このまま張飛を襲えば、必ず逆襲を喰らうだろう。
「こしゃくな。劉備ごときにまともな軍師がいる筈がないと、侮っておったが」
「急報でございます!」
後方から伝令が駆け込んできた。
「荊州南部で反乱が勃発。魏延というものが部隊を率い襄陽へ向け北上中!」
曹操は唇を噛んだ。あと一歩で劉備を捕捉できたのだが。
「退路を断たれると厄介ですな」
夏侯惇の言葉に曹操は渋々うなづいた。
「一旦、襄陽に戻る。夏侯惇、軍を纏めよ」
「ほう、曹操が引き上げていくのにゃ」
これ以上の追撃は諦めたらしい。張飛は首をかしげながら馬を下りた。
「これから本気を出そうと思っていたのに、つまらん」
にゃーう、と大きく欠伸をする。
「おお、そうだ。お前、仲間のところへ戻るのにゃ」
張飛はふところから仔猫をつまみ出して、そっと地面に降ろしてやった。
森の木々が、ざわざわと揺れた。
「にゃう」
仔猫が張飛を見上げ、小さく鳴く。張飛はにこりと笑う。
森の中から、ネコの大合唱が聞こえて来た。木の枝からもネコが飛び降りている。やがて下草をかき分けるようにして、森に隠れていた数百匹ものネコが姿をみせた。
黒い仔猫はそのネコの群れに向け、走り去って行った。
「不思議なのにゃ。何で奴ら、攻めて来なかったのだろう」
土煙をあげ襄陽の方へ退却していく曹操軍を見ながら、張飛は首をひねっている。
まあ、いいか。知ったことではないにゃ。
張飛はまた馬に跨り、劉備の後を追った。
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