第21話 江東、波乱の予感

 曹操の執務室に入った荀攸じゅんゆうは思わず眉をひそめた。

 にやにやと笑いながら、曹操は手紙を読んでいた。上質な絹布にたおやかな文字が並んでいるのが荀攸にも見える。


「丞相、それは」

 やっと曹操は顔をあげた。

「おお、荀攸。これはな、わし宛ての恋文じゃ。むふっ♡」

「相変わらず気持ち悪いですな」

 荀攸の暴言を気にする様子もなく、曹操はそれをしまい込んだ。


「ところで、荀彧じゅんいくから連絡は来ないか」

「敵陣営に走った叔父から連絡が来るはずがないでしょう」

 荀攸は呆れたように首を振った。


 荀彧と荀攸は叔父と甥の関係にあたる。ただし年齢は甥の荀攸のほうがいくらか上だった。これは兄弟が親子ほど歳が離れている大家族にはよくあることだ。


 荀攸は荀彧に推挙され、曹操に仕えていた。その荀彧が孫策の陣営に移ってしまったが、曹操は変わらず荀攸を身近に置いている。

 荀彧が政治や戦略といった、国家の大方針を決定する際に重用されていたのに対し、荀攸は主に戦略、戦術という軍事面で曹操の信頼を得ていた。


「なあ、荀攸。本当にあの男を取り戻しに行かねばならんのか」

 あの男。漢帝国の皇帝、劉協のことだ。

「なにを今更」

「だって、あいつは本当に性格が悪いぞ。いつも陰謀ばかり企んでおるし」

 身近に置いても碌な事はない。


 現に……と曹操は天を仰いだ。

「わしも、何度もひどい目にあったのだ。やつめ、わしの食事に、自分の髪の毛を混入させおったのだぞ。どう思う、荀攸」

「アブラムシでは無かっただけ、可愛い悪戯いたずらかと」

「お前は大人だのう」

 曹操はため息をついた。


「お前が、気の短い孫策がばっさりと殺ってくれるだろうというから、あえて孫策の手に渡したが、その気配は無さそうではないか」

「時間の問題でしょう。ですが、待つばかりというのも詮無いものです。孫策の周辺から、つっついてみては如何でしょう」

「ふむ、そうなると女だな」

 曹操はしまい込んでいた手紙をまた取り出した。

「一体それは、誰からのものです?」


「こればかりは、いくら荀攸でも教えられぬのう」

 くくく、と曹操は笑う。


 ☆


 きらり、と剪刀がきらめく。

「ぎええええ」

 診察台に縛り付けられた男が絶叫する。裸の上半身にはいくつもの傷がはしり、そこから勢いよく血液が流れ出している。


「うわははは、いい声じゃ。もっと泣け、わめけ」

 ぐへへ、と華佗はさらにその男の身体を切り裂いている。

 その目は完全に別世界に行っていた。


「おっと。これ以上やると本当に死んでしまうな。危ない、危ない」

 華佗の目から妖しい光が消えた。


「これは、なんの治療なんですか、師妹」

 吐き気をこらえながら、おれは華佗に訊く。治療というより、師妹の趣味ではないかという気がしてきたが。


「これは瀉血しゃけつという治療法じゃ。こうやって体内の悪い血を出すのだ。ほれ見てみろ、こんなに血色がよくなったぞ」

 おれはその患者、というより被害者を見下ろした。

 血色がいい、というよりも……。

「血まみれになっているようにしか見えませんが」


「いやー、すっかり体調がよくなりました」

 包帯だらけになったその男はにこやかに一礼した。

「うむ。そなたの不調は血液が多すぎることから来ておったのだ。しかし、当分は激しい運動と刺激物は避けることだのう」

 さもないと。

「全身の傷が開いて、悶死することになるぞよ」

「へへーっ」

 男は袋に入った金を置いて行った。


「傷だらけになったのは、師妹があんなに切り刻むからでしょ」

「うむ。久しぶりなのでつい興奮してしまったのう」

 てへっ、と珍しく反省しているようだ。

 男はこの蜀でも裕福な身分らしい。結構な金を置いていった。

「どうします。そろそろ漢中へ出発しますか」

「そうじゃの。いい頃合いだな」


 蜀の奥地には珍しい薬草が多く産する。市場でそれを買いあさり、箪笥の抽斗の中に収めた。

「師妹、また重くなったんですけど」

「人生と同じじゃのう」

「まったく意味が分かりません」

 ほっほっと笑い、華佗はおれの頭をなでた。


「人生とは重き荷物を背負い、地の底を這いずり回るようなものなのじゃ」

「だとしたら、夢も希望もありませんが」

 おや、どこか間違ったかのう。華佗は考え込んでいる。


 ☆


 漢の皇帝を迎え、建業は帝都として整備が急速に進められている。現在は建業の大族、喬氏の屋敷を仮の朝廷、行在所として使用していた。


 周瑜は上奏文を手に、広間で出座を待っていた。

 しかし皇帝はなかなか姿を現さない。周瑜は固い表情で床の一点を見詰めている。


 小さな悲鳴が聞こえた。控えの間の方だった。

 周瑜は顔をあげ、振り向いた。


 高貴そうな衣裳を纏った若い女性が小走りで部屋から逃げ出して来た。後を追うように控えの間から皇帝が顔を出す。服の前がはだけたその淫猥な姿に周瑜の表情が凍り付いた。泣き顔のその女性は乱れた服をおさえ、ちらりと周瑜の顔を見るとすぐに身をひるがえし、広間を出て行った。


 その若い女性は、周瑜も良く知っていた。

「義姉上……」

 この邸の主、喬氏の娘。彼女は大喬と呼ばれる。

 彼女は孫策の妻であり、彼女の妹、小喬は周瑜の妻なのだった。


「陛下、これはいったい」

 周瑜は皇帝に呼び掛けた。

「……」

 皇帝は無言で控えの間に隠れた。

 その後、皇帝劉協は周瑜の前に出て来ることはなかった。

 周瑜は唇を噛んだまま広間を退出した。




「どうしたんだ、公瑾」

 朗らかな声に周瑜は振り返った。彼の親友、孫策が片手をあげていた。

「伯符、実は……」


 周瑜の瞳は冷たい光を放った。



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