第19話 満寵、裏切りの序章

 ひたすら逃走を続けていた劉備は、ふと馬を止め後ろを振り向いた。

 彼の後を慕って付いて来ていた民衆は置き去りにされ、いつの間にか劉備の配下だけになっていた。どうやら曹操軍もまだ追いついてはいないようだ。

 少しだけ安堵の表情をうかべた劉備は、だがすぐにある事に気付いた。


「まずい、また奥さんとはぐれてしまった」


 劉備は前回、徐州でも夫人を置いて我先に逃げ出し、結果夫人は曹操の捕虜となってしまった。

 どうにか、関羽の活躍で奪還することはできたのだが、その時はすごく怒られ、半年ほど口をきいてもらえなかったのだ。

 それに今度は、嫡子の劉禅も一緒に行方不明だった。

「これはいかんぞ」

 さしもの劉備も顔が青くなった。


「どうしたのにゃ、兄者。そんな怖い顔をして」

 張飛が胸に何か抱えて、駆け寄って来た。

「それは何だ、もしや阿斗(劉禅)なのか」

 だとすれば、張飛の大手柄だ。


「乱戦の中から救い出してきたのにゃ。結構、大変だったのにゃ」

 張飛は劉備の前に来ると、鎧の内側に保護していたものを、そっと腕に抱いた。

「おお、なんと」

「どうかにゃ、兄者」


 張飛の腕のなかで、真っ黒な仔猫が金色の瞳で劉備を見て、にゃ、と鳴いた。

「なんと可愛いのう、可愛いのう」

「じゃろう」

 劉備と張飛は、一緒に仔猫の頭を撫でては目を細める。


「ちょっと待て。おい張飛。なんだこれは」

 そこで劉備が我に返った。

 はあ? という顔で張飛が見返す。


「これは子ネコという生き物だにゃ?」

「わしでもネコくらい知っておる。阿斗はどうしたのだっ!」

 劉備は両手で、張飛の太い首を締め上げる。


「心配せずとも阿斗さまとご夫人方は、趙雲が探しに行ったのにゃ」

 劉備の手を振りほどき、張飛は立ち上がった。

「ではちょっと、おれも趙雲を迎えに行ってくるのにゃ。その報告をしに来たのに、忘れる所だったにゃ」


 不敵に笑った張飛は、片手に仔猫を抱えたまま、馬に飛び乗った。


 ☆


 壊れかけた家の片隅に、劉禅の生母、甘夫人は倒れていた。矢傷を受け、血塗れですでに息絶えていた。

 趙雲はがっくりと膝をついた。その耳に弱々しい泣き声が聞こえた。

「阿斗さまか」

 甘夫人の身体を動かすと、衣裳に隠れるように、ひとりの幼児が横たわっていた。ほうっ、と趙雲はため息をついた。


 半分ほど埋まった井戸の中に甘夫人の遺体を隠し、趙雲は阿斗を抱き上げた。そっと建物の陰から外を窺う。


 そこかしこで曹操軍と劉備軍が戦っている。いや、すでに劉備軍は殲滅されかかっていると言った方がよかった。

 長坂坡は曹操軍で満ちている。


「天の神よ。おれに力を与えてくれ」

 趙雲は祈って騎乗した。そして阿斗を鎧の内側に入れ、劉備が逃走した方向へ全力で駆け出した。



「丁度いい。この長坂橋がおれの死に場所にゃ」

 やや大きな川が平原を横切り、街道を進む為には一本の橋を渡らなければならない。どんな大軍でもこの橋を渡るためには、一度にせいぜい10人程だろう。

 張飛は馬上、矛を横たえ、曹操軍を待った。


 やがて彼方に土煙があがり始めた。

 長坂坡を埋めるほどの曹操軍が姿を現す。

「ご大層な事にゃ」

 張飛はにやりと笑った。


 ☆


 曹操軍の先鋒の一団。その小隊のなかに満寵まんちょうがいた。かつて荀彧とともに許都の朝廷を守護していた彼は、孫策の急襲によって献帝を奪われた。今はその失態を責められて一小隊長に貶されていたのだ。


「ほれ、行くぜ隊長どのよ」

 部下に小突かれた満寵は天を仰いだ。

「なんでわたしがこんな目に……」

 彼には内緒で、献帝を連れ去った荀彧が恨めしい。


 劉備を追って進軍していく内に、街道は一本の河川で遮られていた。

「橋の上に誰か立ってるぞ」

 兵士の報告に、満寵は目をこらした。たしかに橋のど真ん中に、ネコひげの巨漢が仁王立ちしている。


「何のつもりだ。一気に踏みつぶしましょうぜ、隊長」

「いや、ちょっと待て。あの男は確か……」


 満寵が逡巡している内に、他の隊がその男に挑みかかっていった。

「何してるんです、隊長。早く命令を出しなさいって」


 逸る部下たちをゆっくりと見回した満寵は、静かな声で言った。

「お前たち、関羽どのを知っているか」

 その名前を聞いた途端、部下たちの顔色が変わった。


「もちろんでさ。素手で地球を真っ二つに割ったっていう人でしょ。黄河や長江ができたのも、関羽さまのおかげだと聞きましたぜ」

 だいぶ話が大きくなっているようだけれど。満寵は、曖昧に頷いた。


「その関羽どのが言っていたのだ。我が義弟の張飛という男は、自分などよりずっと強いのだ、と。あれはその張飛に違いない」

「げげーっ」

 部下たちは慌てて満寵の後ろに隠れた。


「うぐわーーーっ!」

「ぎえーーっ!」

 橋の方向で次々と悲鳴があがった。あわてて振り向くと、何人もの兵士が宙を舞っていた。多くは首が飛び、胴体が真っ二つになっている。

 阿鼻叫喚の地獄図が橋の上で展開されていた。


「退けーっ、退けーっ!」

 本隊から引き鉦が鳴らされた。

 満寵と部下たちは顔を見合わせる。命拾いした……と、誰の表情にもあらわれていた。


「それより、隊長は関羽さまのお知り合いなんで?」

「もちろんだとも。何度も話をしたことがあるぞ」

 へえー。部下たちの満寵を見る目付きが尊敬のまなざしに変わった。


(あれれ、こんな感じ久しぶり)

 ここしばらく虐げられていた満寵は、少しだけ気分が晴れた。


 ああ、早く権力の座に返り咲きたい、満寵は呟いた。



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