第29話 廖化、師妹にはかられる

 呉漢の大軍が襄陽に殺到した。

 ただし孫策を支えて来た江東生え抜きの武将たちは、ほとんどが左遷されて南方に逼塞しているため、襄陽に押し寄せた呉漢軍は董卓の旧臣が中心となっていた。


 総大将の李傕りかく郭汜かくしは大軍をもって襄陽を囲んだが、関羽が陣頭に出て来ただけで脆くも崩れ立った。

 手術から間もない関羽だが、しょせん寄せ集めでしかない呉漢軍の歯が立つような相手ではなかった。


「退くな、戦え!」

 逃げ去る軍を呼び止めるために叫んでいた李傕は殺気を感じ、振り向いた。


「そなたが李傕だな」

 見事な髯を蓄えた朱面の武将が、雄大な馬に跨り李傕を睥睨していた。

 李傕は戦慄した。


 その馬の名を李傕は知っていた。

『馬中の赤兎』と称される名馬、赤兎。


 そして赤兎馬を御するこの男。

「か、関羽!」

 呆然と口をあけた李傕の首を、巨大な偃月青龍刀が刎ね飛ばす。


 関羽は数騎で敵陣を切り裂き、本陣を襲ったのだ。さらに馬首を副将の郭汜の軍へ向け、こちらも一刀で郭汜の首をあげた。

 主将を失った呉漢軍を、突出した城兵が次々に討ち取っていった。


 呉漢朝廷軍は、ただ一戦で壊滅した。


 ☆


「そろそろ潮時でございましょう」

 張昭は若き主君、孫権に告げた。

 碧眼紫髯のこの青年は、いいだろう、と大きく頷く。

「献帝を追放する」


 献帝の忠実な側近だった荀彧や董昭は讒言によりすでに死を賜り、残るは董卓や呂布の残党ばかりになっていた。

 献帝に寄生し甘い汁を吸っていた、その李傕たちも襄陽攻めに失敗し、関羽のために討たれた。

 失政を繰り返し、晩節を汚し続けた漢王朝の命脈は、ついに尽きたと言っていい。


「だが、その前にあの男にはもう一仕事してもらわなくてはならん」

 孫権は献帝の側に仕える女官を呼んだ。


華歆かきん。陛下に御位を降りてもらうことにした。よって、自発的に禅譲を申し出ていただくよう陛下にをするのだ。手段はえらばぬ」

「殺さない程度に、という事でよろしいでしょうか」

 華歆は、すっと目を細めた。彼女は献帝を監視するため、孫権の兄、孫策によって後宮に送り込まれていたのである。


「陛下には禅譲の儀式に出てもらわねばならん。棺に入って、というのも体裁が悪いからな。ちゃんと手加減するのだぞ」

「おそれながら、聞き分けがない場合は最悪の事態もあろうかと存じます」

 相変わらず、華歆の冷やかな美貌には全く感情が現れない。

 孫権は苦笑しながら、黙って頷いた。


「では親衛軍をお借りします」

 そう言って華歆は部屋を出た。


 ☆


 おれは李傕の部将、楊奉に捕らえられていた。襄陽城を逃げ出した途端、呉漢軍の別動隊に見つかったのだ。

「勅使を殺害しようとしたらしいな。呆れたものだ」

「わざとじゃないんですけど」

「だが、わしの一存で斬る訳にもいかないからな」

 そのまま空き家に監禁された。


 しばらくは何事もなく過ぎたが、ある日急に陣営内が騒がしくなった。

「李傕将軍が討たれた。軍団は全滅したらしい!」

「関羽ひとりにやられたんだ」

 そんな声が聞こえてくる。どうやら呉漢軍が襄陽に攻め込み、関羽の逆撃を喰らったらしい。これは喜んでいいのだろうか。


「俺たちも逃げよう。だがこの人質はどうする」

「そうだな。勅使を殺そうとした極悪人らしいから、生かしておく価値もないだろう。ついでに殺ってしまおう」

 空き家の外で監視に当たっている兵士の声がする。冗談ではない。これはまったく喜べない事態になってきた。


「にゃん」

 ネコの那由他が擦り寄ってきた。その首に小さな錦地の袋が下がっている。

「そうか。師妹から、困ったときはこの袋を開けるように言われていたな」

 師妹はおれたちとは別に、先に蜀へ向かっていた。


 中には一粒の丸薬が入っていた。匂いを嗅ぐと、うっとこみ上げてくるものがある。那由他も部屋の隅まで逃げていった。

「まさか……これを服用しろという事か?」

 本能的に危険を感じた身体が、飲むのを断固拒否しているのだが。


 ばん、と扉が開き、剣をさげた兵士が入ってきた。

 もう迷っている暇はない。手にした薬を口に放り込んだ。

「ぐ、ぐえ」

 飲み下した瞬間、胃の中が焼かれたように熱くなった。

「しまった。これ毒じゃないか!」

 師妹に騙された。おそらく口封じのために毒を盛られたに違いない。


 血を吐き、おれは床に倒れ伏した。


「おお。自決したぞ」

「見かけよりは立派なやつだったな」

 遠ざかる意識のなかで、兵士の声が微かに聞こえる。


 おれは全身が冷たくなるのを感じ、やがて視界が闇に包まれた。


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